第16話 動き始めた龍馬の夢

 土佐・高知城――。

 京での四侯会議から土佐に戻ってきた山内容堂は、眉間に深い皺を刻みつつ、朱塗りの盃を口に運んでいた。

 これまでは心地よく酔えるのだが、最近はいくら飲んでも美味くはない。

 酒の銘柄は、剣菱。


 一般的に日本酒は無色透明だが、剣菱は淡い黄色がついている。

 辛みと旨みがバランスよく調和した飲みやすいやわらかな味わいで、燗にするとさらに旨みが引き立ち、きりりと引き締まった抜群のキレ味がたまらない。

 容堂は、この剣菱が好きだった。

 美味くないのは酒のせいではなく、彼の心にある。

 容堂は徳川恩顧の立場から、公武合体・佐幕路線を模索していたが、幕府の威信は下がる一方である。

久しぶりに一堂に会した薩摩の島津久光、福井の松平春嶽、宇和島の伊達宗城らの表情から察するに、彼らも幕府の危うさを感じているようだ。


「――大殿おおとの

 三口めを口に運びかけたところを、彼は声をかけられた。

「何事じゃ?」

「乾退助どのが、お目にかかりたいと罷り越しておりまする」


 乾退助――、御側御用役、大監察と藩の要職に就いていた男である。

 近年は江戸・築地土佐藩邸の惣預役に就いていた筈だが、乾は何を思ったか辞職した。

 今さら詫びでも言いに来たか――と、容堂は思ったのだが。

 

「久しいのう。乾」

「大殿、某は薩摩と倒幕の密約を結びましてございます」

 乾の突然の告白に、容堂は激昂しかけた。

 幕府を倒すなど、暴挙としか思えなかったからだ。

「乾! おまんは……っ」

「徳川を想う大殿のお気持ちはわかりまする。なれど、世の流れは止められませぬ。幕府に諸藩を抑える力がないことは明らか」

 まるで揺れる容堂の胸の内を覗いかのような物言いに、容堂は震える拳を握りしめた。

 恐らくこれからも、酒は美味く味わえないだろう。

 以前――、ある男が容堂に、こういった。


 ――土佐守とさのかみさま、この国は変わりまする。これからは国を想うものたちが、さらにこの国を変えていくことでございましょう。


 男の名は、勝海舟――。

 下田にいた容堂を訪ねてきた幕臣である。


 ――勝安房かつあわ、おまんの言う通りになっちょったの……。


 はたして勝に、ここまで予想していたかわからないが、世の流れには容堂とて抗えぬ。

 容堂は躊躇ためらいつつも薩土密約を承認し、乾に土佐藩の軍制刷新を命じたのであった。

やがて月は、七月になった。

 容堂の前に、参政・後藤象二郎が座った。

「後藤――、おまんも幕府を倒すっちゅう考えか?」

 だが後藤の答えは、乾とは少し違った。


            ◆


西郷せごどん、ほんのこて幕府ば、倒すでごわすか?」

 京――、薩摩藩二本松藩邸。

 薩摩藩士・中村半次郎が、西郷吉之助の前で口を開いた。

 文久二年、国事の周旋を目的とした島津久光の上洛を機に、薩摩藩は、錦小路東洞院南東の京屋敷に対して、相国寺の南の二本松に新屋敷を造営したという。

 この新屋敷が、現在の薩摩藩二本松藩邸である。

 相国寺惣門から今出川通りまでの間は大門町と呼ばれ、大門町の東は、今出川通りに近い部分が伏見宮で、一方の西側は、相国寺惣門と今出川通りの間を三分するかたちで、今出川通りと平行する二本の小路が走り、南の小路が石橋町、北の小路が二本松である。

 

「もう幕府に力はなか。長州藩とともに幕府を倒す以外、こん国を救う道はありもはん。すでに国父さまも、倒幕やむを得ぬという考えじゃ」

 西郷の武力倒幕の意思は、揺るぐことはなかった。

 だがそんな西郷を、土佐藩参政だという後藤象二郎が訪ねてきた。

 

 

「土佐藩の参政が、オイになんの用でごわんど」

 

「うちの乾と、倒幕の密約を結んじゅうことは確か?」

「土佐藩も、倒幕に傾くと聞きもす。じゃっどん、まだ躊躇ちゅうちょしている様子ですの?」

 乾との密約時――、土佐藩前藩主は徳川恩顧だと聞かされた。

 四侯会議でも幕府よりの発言をしていたらしいが、後藤の表情から土佐藩の倒幕の意思は低いようだ。

 こうなると、土佐藩を倒幕に引っ張るといった乾の策は難しいだろう。

 すると後藤が、不意に話題を変えた。

「西郷、京には坂本も来ちゅう」

「坂本さぁーが?」

「西郷、わしと坂本は大政奉還を考えちゅう」

 瞠目した、西郷であった。

 


            ◆◆◆


 京・河原町――。

 龍馬がここにくるのは、いつ以来だろう。

 そんな河原町を流れる高瀬川は、都の中心部と伏見を結ぶための運河である。

 この日も高瀬舟が川を行き来し、川沿いの柳が風に揺れていた。

そんな高瀬川沿いに、土佐藩邸はあった。

 四条河原町を少し北へ入ったところには、稲荷の社・岬神社があり、もともとは鴨川西岸にあったらしいが、この土佐藩邸の庭に移ったという。

 これゆえに岬神社は、土佐稲荷とも呼ばれる。

 龍馬はそんな土佐稲荷で柏手をうち、大政奉還を祈願した。

 ほどなくして藩邸に、ともに京入りした後藤象二郎が戻ってきた。


「西郷は、驚いちょったじゃろうの」

 龍馬と後藤は、武力倒幕を決意した西郷吉之助を宥めるべく、この京に来た。

 将軍に大政奉還をさせないか、との誘いである。

「薩摩は武力倒幕を藩論としちゅうがやき、当然じゃ」

 後藤いわく、この誘いに西郷はしばらく渋面だったという。

 龍馬の脳裏に、西郷の顔が浮かぶ。

 太い眉をぐっと真ん中に寄せ、渋面を作る西郷の顔が。

「ほんで、西郷さんは来るかえ?」

「まっこと、薩摩を抑えられるがか? 坂本」

「薩摩を抑えても、他藩までは難しいじゃろうの」

「坂本……!」

「ほんぢゃけんどの、後藤さま。戦は止められるがよ」

「あとは――、上の決断次第ということか……」

 

 幕府に自ら幕引きさせるには、将軍・慶喜の決断を迫るのだが、その役目を人物は龍馬も後藤も同じ人物を思い浮かべていた。

 将軍に謁見が許され、徳川のためとならば動く人物――。

 そのまえに、薩摩の意思をいったん緩める必要がある。

 

 中岡慎太郎はも武力倒幕を進めていたようだが、龍馬の案に態度を緩めた。

 すでに土佐藩では、薩摩との密約によって武力改革路線に移行しつつあったが、武力倒幕に山内容堂の心は揺れているという。

慶応三年六月二十二日――、京・三本木料亭『吉田屋』に、龍馬と中岡慎太郎、薩摩側の小松帯刀と西郷、大久保、土佐側は後藤や福岡孝弟ら重役が集まった。


「まず大政奉還を将軍側に提示し、それが決裂した場合には、薩摩・長州とともに、土佐も立つがよ」

 龍馬の言葉に、西郷がようやく話に乗ってきた。

「坂本さぁー、新国家を築く考えば、教えてたもんせ」

「グラバーから聞いた話じゃけんど、異国は議会っちゅうものがあるようじゃ」


 大政奉還後の新国家――、公家から庶民にいたる者の中から選挙された議員と、諸侯でなる上下院制の議事院が担う政体制まつりごとたいせい

 そこに、身分の壁はない。

 この国のために、誰でも意見がいえて、政に反映する。

 この国はきっと、再生するだろう。


 長年夢見たこの国が強くなる方法――。

 いじめられ、弱虫で泣き虫だった子供時代――、最初から自分はなにをしてもだめだと諦めていた。

 もしあのとき前を向かず、下ばかり見続けていたら今の龍馬はいなかっただろう。

 この国の現状も、広い海の世界も、なにひとつ見えてはいなかった。

 そして見えたからこそ、この国をなにとかしたいと思った。

 強いものに対して揺れ動く幕府は、子供時代の龍馬と同じだった。

 外圧に屈し、この国は異国のほうが力が上。

 しかも身分の差が、この国を良くしようとするものの口を閉じさせる。

 だが新国家は、それらが一気に解消されるのだ。


 大政奉還を盛り込んだこの盟約こそが、薩土盟約である。

 

 後藤は盟約内容を山内容堂に了承してもらうため、土佐へ帰っていった。

 そしてもう一つ――、将軍・慶喜の背を、容堂に押させるために。



 

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