第15話 この国のために
慶応三年六月――京・二条城。
徳川十五将軍・慶喜は、長州征伐が停戦となった現在でも、二条城で政を執っていた。
二度目の長州討伐時に米英仏蘭の四カ国に兵庫開港を迫られたが、その問題はなんとかかたがつきそうだった。
そんななか兵庫津にやってきたのが、米英仏蘭の四カ国公使とその艦隊である。これにより長州再討伐中の幕府軍は、大阪で足止めされた。
四カ国は、幕府に対して
「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、もはや幕府とは交渉しない。御所に参内して天皇と直接交渉する」
と主張した。
諸外国が幕府を越して、朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊する。
幕府は朝廷に兵庫問題を求めるが、朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、なお兵庫開港については勅許を与えない状況が続いた。
その勅許がようやく得られたのは、この五月下旬のことである。
しかし兵庫開港問題を強引に推し進めたことで慶喜への反発は強まり、幕府の威信は下がる一方である。
さらに、長州再討伐が幕府の事実上の敗戦となったここも加わった。
まさか朝敵となり、武器を買えぬはずのかの藩が、西洋の最新武器を手に入れているとは、幕府側は誰も気づかなかった。
「上様――、薩摩藩に不穏な動きが見られるとの報せにございます」
老中・
「ついに動いたか……。薩摩め」
予期していたとはいえ、慶喜は唇を噛む。
薩摩藩主は慶喜が将軍に就く以前から、幕政に参画していた。
公武合体派として幕府寄りだったが、その存在が大きくなるにつれ、慶喜は将軍後見職の時代から嫌な想像が膨らんでいった。
かの藩が一転、反幕府という立場となればどうなるか。
味方にしても敵にしても、厄介な藩である。
そしてその想像は、どうやら的中してしまったようだ。
「上様、急ぎ薩摩さまを召され、真意を問われるのがよろしいかと存じます」
板倉のいう薩摩さまとは、島津久光のことだろう。
「いや、あの男はもう余には会うまい」
なにせ四侯会議で、激しく衝突した相手である。
「ですが……」
「今が正念場ぞ。
「はっ」
板倉は低頭した。
幕府の弱体化は、慶喜にもわかっていた。
はじまりは、大老・井伊直弼の暗殺だろう。
ときの大老が、浪士たちに襲撃されるという事態に、幕府の威信は低下した。
幕府は失墜した権威を取り戻すため、朝廷が持つ伝統的な権威を借りて、体勢を立て直す公武合体に踏み切った。
薩摩藩は雄藩による連合政権を立ち上げ、政治を主導しようと考えていたらしいが、慶喜はあくまでも、徳川家と親藩を中心とした政権にこだわった。
そもそも、将軍に就くつもりは慶喜にはなかった。
低迷し続ける幕府の将軍に就くということは、火中の栗を拾うようなものだからだ。
たしかにかつて、前将軍・家茂と十四代将軍を巡って争う仲となったが、それは父・斉昭らが推していただけで、慶喜は関与はしていない。
それがその家茂が亡くなり、再び徳川宗家断絶の危機となった。
今度は対立候補はなく、再び慶喜が次期将軍に推されたが、傾きかけた幕府を立て直す自信は慶喜にはなく、徳川宗家は相続したものの、将軍職就任は拒み続けた。
されど将軍の座をいつまでも空けておくこともできず、慶喜は将軍となった。
長州藩に続き、薩摩藩も反幕府に転じた。
板倉の話では、土佐藩内も倒幕の動きが見られるという。
倒幕に傾いた藩士の多くは、かつての尊王攘夷派である。
もともと幕府と対立していたゆえに、倒幕に傾いてもおかしくはないが、怖いのは倒幕の声が他藩にまで拡大することだ。
慶喜は将軍として、意地と誇りにかけて幕府を守る決意をした。
◆◆◆
青空の下、馬関海峡を通過し、瀬戸内に入った一隻の蒸気船がある。
長さ約三十六
その船内で、龍馬は腕を組んで一枚の紙と対峙していた。
龍馬の目的地は京――、武力倒幕を図る薩摩の西郷吉之助たちを抑えるためである。
「坂本、やはり幕府はもうだめか?」
龍馬がいる場に、土佐藩参政・後藤象二郎がやってきて渋面を作った。
「後藤さんにしちゃあ、諦めが悪いぜよ」
「いや、わしも幕府はもう諸藩を抑える力がないことはわかっちゅう」
「
「そうじゃ。あのお方は徳川恩顧やき、倒幕と言おうものなら激怒されるじゃろ」
四侯会議での山内容堂がとった態度は、龍馬も聞いていた。
幕府が優勢と見るや幕府よりの発言をし、振りとなれば会議を欠席するいうその行為に、土佐藩内では呆れている藩士もいたという。
「後藤さま、わしの倒幕は長州と薩摩とは違うがよ」
これに、後藤が驚愕した。
「な、なにをいう!? 幕府はもうだめやき、朝廷に政を返したほうがええといっちょろう!?」
後藤は、龍馬も武力倒幕だと思っていたらしい。
「ほんぢゃき、違うんじゃ。わしは血を流さずに、徳川の世を終わらせたいんじゃ」
無理に武力で討伐しようとすれば、内乱が起きる恐れがある。そうなれば英国やフランスの異国勢が干渉し、事態はややこしくなる。
これを回避するには、幕府自らの幕引きしかない。
大政奉還である。
「これは?」
後藤が龍馬の前に広げられた紙に、視線を向ける。
「わしなりに、新しい国の構想を練ったがよ」
一、政権を朝廷に返すこと
二、上下の議会を置き、すべて公論に基づいて政治を行うこと
三、公卿・大名のほか世のすぐれた人材の中から顧問を選ぶこと
四、新しく国家の基本になる法律(憲法)を定めること
五、外国と新たに平等な条約を結び直すこと
六、海軍の力を強めること
七、親兵を設けて都を守ること
八、金銀の比率や物の値段を外国と同じにするよう努めること
のちに、船中八策といわれる八か条である。
「まさか、幕府に物申すつまりか? 坂本」
「わしはただの土佐郷士ぜよ。そげなことはできん」
龍馬は苦笑して、後藤に視線を合わせた。
後藤は、龍馬の意図がわかったらしい。嘆息した。
「――わしの出番というわけか……」
後藤は土佐藩で参政に就いている。
しかもこの後藤を、藩で誰が一番信頼しているかといえば――。
龍馬はたった一度だけ見たことがあるその人物を脳裏に浮かべ、笑った。
「そして最終的に大樹公の背を押すのは――」
名前を出さずとも、後藤にはここまで来るとわかったらしい。
「坂本……、どうして我が藩は、下士を登用しなかったのか悔やまれる」
「どういたが? 後藤さま」
「もしおまんらのようなものが藩内にいれば、土佐藩はもっと早く変われたと思うがじゃ」
「わしは、藩を恨んじょらんがよ。たしかに上士には昔、犬の糞でも投げつけたくなったときがあっちゅうが」
「……やったのか……?」
「いんや。けんどの、後藤さま。わしは信じることにしたがじゃ。いつか藩は変わる。下士でも人の役に立つっちゅうことをわかってくれる。わしの信じたことは、間違いだったかえ? 後藤さま」
徳川開府から土佐に根付く上士と下士の身分差別――。
たとえ雨が振って地が濡れていようが、路で上士と会おうものなら下士は土下座をせねばならぬ。
暴言を吐かれても耐え、無礼討ちされても文句もいえぬ。
それがこれまでの、土佐での下士であった。
それが異国船来航で鎖国はあっけなく瓦解し、世が変わり始めた。
土佐も、変わらぬはずがない。
土佐は、龍馬が生まれ育った故郷である。
土佐への想いは、脱藩してからも変わっていない。
いつか上士も下士も関係なく、この国のために心を一つにするときが来る。
そう信じ続けた龍馬の想いに、後藤が静かに答えた。
間違ってはいないと――。
龍馬が京に入ったのはそれから七日後の、ことだった。
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