第14話 小松帯刀邸での倒幕密約
薩摩藩国父・島津久光の上洛に伴い、京に入った西郷吉之助だが、自身が奔走した四侯会議は将軍・慶喜に主導権を握られ、久光はその慶喜の激しく対立した結果、京・二本松藩邸に帰ってきてからも機嫌が
激昂しやすい久光の性格からこうなることは、西郷も計算済みである。
もはや公武合体が意味をなさないことをその目で確かめるには、四侯会議はもってこいだった。
「いったい、誰のお陰で将軍に継ぎじょっとか!?」
と、こうである。
まだ十三代将軍・徳川家定の治世――、その後継を巡り、慶喜を推していたのは久光の兄にして先代藩主・斉彬である。結果将軍となったのは対立相手が推していた家茂で、慶喜は将軍後見職となったが、おそらくこのときのことを言っているのだろう。
久光は当時この問題に関わっていないはずだが、将軍に推した薩摩藩の恩を何だと思っているらしい。
薩摩藩はこれまで幕政改革も進め、公武合体にも尽力した。
されど幕府は、そんな薩摩藩を警戒し始めた。
口うるさい輩は煙たがられるというが、威信が低下しつつある幕府にとって有力大名である薩摩は脅威なのだろう。
西郷は藩邸の廊下に立ち、空を見上げた。
この日は薄曇りで、ぼやけた日輪の光だけが雲を透して見えた。
京の情勢は落ち着いているが、それが本来の京の都である。
尊王攘夷の声が高まるとともに、天誅による殺戮の場となり、政変が二度も起きた。それを、西郷たち薩摩藩士は収めた。
それが朝廷のため、幕府のためと思ったからだ。
しかしその幕府の威信は下がり続け、朝廷の力が高まった。
長き武家政権の終わりを、西郷も感じた。
「吉之助さぁー、土佐の中岡さぁーから報せが来たそうじゃの?」
西郷の横に、大久保一蔵が立っていた。
「乾という男ば、会わせたいそうじゃ」
中岡慎太郎という男は長州の桂小五郎たちと同じく攘夷派志士だったそうだが、現在は倒幕のために奔走しているという。
そんな中岡が、土佐藩も変わろうとしているという。
前藩主の山内容堂は現在も幕府寄りの男だが、乾退助という男は上士でありながらも幕府の行き詰まりを感じている一人であり、彼が倒幕に立てば土佐藩も倒幕に傾くかも知れぬという。
「どけんすっと? そん土佐ものばかり信用して大丈夫なんか?」
「一蔵どん、彼らのこん国ば想う心に、偽りはなか。既に長州藩は、倒幕に肚を決めたちゅうぞ。薩摩も遅れてはならん」
長州藩の朝敵の汚名はまだ晴れてはいないが、長州藩が倒幕を決意したと幕府が聞いても、彼らに再び軍を動かす力はないだろう。
長州藩再討伐は停戦となったが、明治帝は先帝と違い、幕府寄りではないという。
再々の討伐勅許は、今度こそ難しいだろう。
それに戦となればまた、軍資金が必要になる。
財政を逼迫しかねないこの戦に、従う藩は前回より更に減るだろう。
この西郷の倒幕の決意に、薩摩藩家老・小松帯刀が賛同した。
京・
かつては摂関家・近衛家別邸だったが、小松帯刀がここを住まいとしていた。
この小松邸に、薩摩藩側・西郷吉之助、小松帯刀、
「もはや幕府にこん国をまとめる力はありもはん。土佐側はどう思いもんそ」
口火を切った西郷に、乾が告げた。
「決まっちょろう。徳川の世は終わりぜよ。上がなんぼいうたち、わしらの気は変わらんがやき、土佐もいずれは倒幕に傾けるがよ」
乾は、いずれ土佐藩前藩主・山内容堂も、倒幕やむを得ぬと決断されるという。
慶応三年五月二十二日――、ここに倒幕に向けての、
◆◆◆
長崎――、伊呂波丸事件で明光丸・紀州藩側と話し合っていた後藤象二郎は、
龍馬が花街・丸山で流行らせた俗謡の効果もあるだろうが、極めつけは紀州藩が「解決しない場合には、戦で決着する」という言葉に対しての、龍馬の返事だろう。
「――いま……、なんと……いわれた?」
五月末――、長崎・
紀州藩勘定奉行・
彼にとって、予想外の返事だったらしい。
「戦をしゆうというたがよ」
「い、戦とは物騒な……」
「おかしいのう。戦をしゆうと先にいったのは、そっちだと聞いたが?」
「そ、それは……」
茂田の目が泳ぐ。
彼らからすれば、脅しに過ぎなかったのかも知れない。
相手は脱藩浪人など下級武士がいる集団、
「ただ――、土佐藩も黙っちょらんがよ。海援隊は、土佐藩傘下やき。つまり土佐藩が戦の相手になるかもしれんちゃ」
「土佐藩……っ」
紀州藩勘定奉行・茂田一次郎の顔は、
これで本当に御三家・紀州徳川家と戦になるかと思ったが、茂田の肝は小さかった。
声が震え、これまでの勢いはどこへやら、すっかり怖じ気づいた。
さすがにこの時勢に、戦はできないだろう。
幕府も朝廷も何事かと言ってくれば、これ以上大事にしたくないのが、紀州藩の思惑ならば、やはり戦といったのは脅しだった可能性がある。
結果――。
龍馬は、
青くて深い初夏の空は、まるで無限の広がりを感じさせる。
海は穏やかで、小さな波がキラキラと太陽を照り返していた。
――勝った……!
龍馬は伊呂波丸事件の交渉に勝ったことに、満足していた。
海援隊側に支払われる賠償金は、八万三千,五二六両。
長き伊呂波丸の航海は、ここに終わる。
だが後藤が知らせてきたのは、良い知らせだけではなかった。
薩摩藩が倒幕に傾き、乾退助ら土佐藩士と武力倒幕の密約をなしたという。
龍馬は倒幕に文句はないが、これ以上血を流すことは避けたかった。
ゆえに、あまり喜ばしい報せではなかった。
「後藤さん、これまでわしの周りでは、国を思いながら死んでいった多くの仲間がいちょったがよ。ほんぢゃき、教えとぉせ。この国を強くし、新しい国にするにはもっと血が必要がか? こう思うことは、わしが今でも弱虫なのかえ?」
龍馬の中に、志なかばで散った仲間たちが次々に蘇って消えていく。
土佐勤王党の武市半平太、
それぞれ立場は違えど、龍馬にとって国を想う仲間であった。
たしかに幕府は、もう保たぬ。
異国の圧力に耐えたとて、異国は幕府のために戦ってはくれない。
――この国は、この国の者が守らなきゃならねぇ。
かつて師・勝海舟は、弟子になりたての龍馬にそういった。
はたして
「坂本――、おまんの答えは……」
思いの丈を語る龍馬に、後藤が口を開く。
「幕府もええ加減わかっちょろう。もはや威信回復は望めんちことは。ただ、意地があるきに、できんがよ。政返上など、と」
大政奉還――、それが龍馬の答えだ。
だが徳川もまた、家康公への義理があるだろう。
家康公が築き天下泰平の世を願って開いたという徳川幕府――、二百年以上続いたその歴史に終わりを告げるには、苦渋の決断となろう。
龍馬が徳川の意地といったのは、その理由ゆえだ。
「では、どうしゆうが?」
「まずは、西郷さんを止めるがよ」
武力倒幕ではなく、幕府によって朝廷への政返上を願う龍馬は、薩摩藩の武力倒幕を抑えるべく、京へむかうことにしたのだった。
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