第14話 さらば勝海舟! また会う日まで

 さかのぼること――元治元年七月末。

「え……」

 伏見寺田屋にて女将・お登勢を手伝っていたおりょうは、龍馬の言葉に言葉を失った。

 龍馬は、おりょうに「おまんを、妻にしたいがじゃ」と言ったのである。

 これに言葉を発したのは、その場に一緒にいた、お登勢のほうだった。


「ええ話やないの! おりょうちゃん。うちは龍馬さんが、いつ言い出すか気をもんでいたんや。こういう話は、やっぱり男はんからいうもんやさかい」

「へぇ……」

 おりょうは、浮かない顔だ。

 たしかに、夫婦めおととなっても一日ずっと一緒にはいられないだろう。

 龍馬も追われる身であり、夢のために奔走し続けている。

 おりょうが戸惑うのは当然で、龍馬は頭をかく。

 

「わしには、おまんが必要じゃき。もちろん、無理強いするつもりはないがよ。こがな男やき、気に入らんと思われても仕方ないき」

 これにまたもお登勢が、おりょうの決断を強気な言葉で促す。

「おりょうちゃん、迷うことはおへんえ? こう見えてこの龍馬はん、女子おなごにもてはるのや。捕まえておかんと、捕られてしまうえ?」

「お登勢、わしはそがなに女癖は悪くないぜよ……」

 宿を女手一つで切り盛りし続けた彼女だけに勇ましいが、どうも龍馬は現在も強い女の言葉には敵わないのであった。

 

 

 かくしてそれから八月始め――、金蔵寺で祝言を行った。

 晴れて二人は、夫婦めおととなったのである。

 金蔵寺は青蓮院塔頭しょうれんいんたっちゅうのひとつで、おりょうにとっては、父・楢崎将作が、青蓮院の門主を務めた青蓮院宮の侍医であったこともあり、多少の縁はあるだろう。

 だが――、

 秋になると、とんだ災難が、龍馬たち海軍塾生の身に降り掛かってきた。

 


「勝センセが、江戸にかえされる!?」

 摂津・兵庫津――、港にいた龍馬は、知らせに来た近藤長次郎を振り返った。

「幕府の命令じゃそうです」

「どうひて、センセが還されるがじゃ!? 長次郎!!」

 思わず長次郎の胸ぐらをつかんだ龍馬に、長次郎は青ざめた。

「お、落ち着いてつかぁさいっ! く、首……、締まりゆうがですっ」

 揺さぶられた上に首が絞まりかけたらしい長次郎に詫びて、龍馬は勝海舟の元に走った。

 当の勝は、落ち着いていた。

 まるで、わかっていたかのように――。

 

 やはり幕府は、龍馬たち下士や浪人が、幕府直轄・神戸海軍操練所にいることが容認できなかったらしい。

 しかも池田屋事件で海軍塾生が関与していたこと、蛤御門の変で長州軍とともに浪士たちも蜂起していたらしい。

 これらの件に塾生たち全員は関わっていなかったが、幕府としてはこの際、一掃したいらしい。

 しかし、その責任を勝が取らされることに、龍馬は納得できない。

 

「そんぢゃけんど、センセに罪はないがやき」

おいらも相当、幕閣から嫌われたもんだぜ」

 勝はそういって、苦笑した。

「センセ……」

「そう落胆するんじゃねぇ。日の本の海軍を造る夢は諦めちゃいねぇ。だから龍馬、おめぇも諦めるな。これはおいらの勘だが、この国はこれからも荒れるぜ? 内側から腐っていくのか、それとも外側から壊れていくのか、このまま何もしねぇと、この国は滅ぶ。おいらは、おめぇたち若いもんが、この国を良くすると思っている。だから上から文句をいわれるのは、おいらだけでいい」


 龍馬は、悔しかった。。


 この年の夏――、龍馬はもうひとりの師を失っている。

 江戸に剣術修行に来ていた頃、ある砲術家の門下になった。

 龍馬に、どうしたらこの国は強くなれるかを説いた、佐久間象山である。

 その佐久間象山が、京・三条木屋町にて殺害されたという。

 首謀者は、尊攘派だったらしい。

 公武合体派であり、開国論者だったことが狙われるきっかけとなったようだ。

 

 そして現在、龍馬はまたも師と別れようとしている。

 龍馬の目を、広い海に向けさせた二人の師、佐久間象山と勝海舟。

 龍馬の日の本を強くしたいという夢の前に、幕府が思わぬ形で立ち塞がってきた。

 この日の空は昨日の雨が嘘のようにやみ、鱗雲を撒き散らしたまま、からりと晴れていた。

 海は波一つ立たず、錫の板を張り詰めたように鎮まっている。

 龍馬の脳裏に、桂浜のはぐれ松が浮かぶ。

 一本だけ海にせりだした松の枝――、二度の台風にも折れることなく耐え抜いたかの枝も、折れてなるものかと思っていたのだろうか。

 

◆◆◆


 神戸海軍塾の解散が決まった数日後――、龍馬は大阪・薩摩藩蔵屋敷を訪ねた。

 勝が龍馬たちの身を、薩摩藩に託したというのだ。

 問題はその薩摩が、なにゆえ自藩の者ではない龍馬たちを預かるか、である。

 

「久しぶりでごわす。坂本さぁ」

 龍馬を出迎えたのは、西郷吉之助である。

 実は二人は、初対面ではなかった。

 長州征伐の噂を聞いた時、これ以上長州を追い詰めるべきではないと、勝と龍馬の考えは一致していた。

 勝はまず先に、龍馬に薩摩を説得に向かわせたのである。

「京で、会っちょって以来じゃの」

 二人の対面は、そのときほど張り詰めたものではなかった。

 お互いの意見をぶつけ合い、その人となりを掴んでいるからこそ、この再会がある。

「こげんしてまた会うとは、おまさぁとは縁がありもうそ」

「西郷さん、今日は別の話で来たがじゃ。わしらのことじゃ。この件、ただの縁だけじゃあるまい? 薩摩藩といえば西国雄藩じゃ。そがな大藩が、わしらのようなもんを匿うには、理由があるじゃろ?」

 

 龍馬の疑問に、西郷はふっと笑った。

「――安房守どのの言ってた通りの人じゃ」

「勝センセが?」

「あんお人は言ってもうした。坂本龍馬という男は、この国を変えるかも知れんと。坂本さぁの言う通り、おまさぁたちを引き受けたのはオイだけの判断じゃなか。薩摩藩家老・小松さまの判断でごわんど。おまさぁが知っている通り、薩摩も海に囲まれている国じゃ。じゃっどん、その海のこつば、薩摩のもんは知らん。先の英国との戦いで、異国との力の差を薩摩は知りもうした。坂本さぁー、薩摩に何が足りないかもうわかりもうそ」

「つまり――、わしらの手を使うっちゅうが?」

 

 薩摩に足りないもの――、船や武器を買う資金はあるが、その船を動かす人間がいない。

 西郷は、そういうのだ。

「嫌でごいすか?」

「薩摩側の人間になるのは、の」

「力を、貸すだけでよか」

 龍馬に、これ以上ためらう理由はなかった。

 薩摩の資金力を頼れば、船を持てるかも知れないと思ったからだ。

 だがその前に、解決しておきたいことが龍馬にはあった。

 海に面し、存亡の危機に瀕している国がある。

 長門、長州藩である。

 今回の長州征伐にも、蛤御門の変と同様、薩摩は先頭に立つという。

 戦となるかならないかの鍵は、薩摩が握っている。

 勝海舟は、この西郷に会いに行けという前に、龍馬にそういった。

 その鍵は何かと聞けば、西郷吉之助だという。


 龍馬が薩摩藩邸を出ると、外は暮れ始めていた。

 晩秋の風が、龍馬の袴の裾を揺らす。

 龍馬が描いた夢という船は、現在も先の見えぬ中を進んでいる。

 その海は決して優しくはなく、何度も厳しい試練を強いてくる。挫けてしまえば難破し、あるいは転覆し、深く暗い海の底で眠り続けることになるだろう。

 

 ――この国はこれからも荒れるぜ? 内側から腐っていくのか、それとも外側から壊れていくのか、このまま何もしねぇと、この国は滅ぶ。おいらは、おめぇたち若いもんが、この国を良くすると思っている。


勝は、龍馬にそういった。

 そうこのままなにもしなければ、日の本は崩壊する。

 朝廷も幕府も、各大名もひとつとならなければ、この国は強くはならない。

この日から数日後――。

 


 元治元年十月二十四日――、勝海舟は江戸へ発った。

 その背を見送る海軍塾生は、唇を噛み締めていた。

「勝センセ……」

「これで最後じゃないがよ」

「龍馬さん……」

「いつかまた、センセに逢えるとわしは思うちょる」

 

 そう――いつかきっと、また逢える。

 龍馬はそう思った。

「けんど、わしらはこれからどうすればええがじゃ」

「一部の塾生は、そそくさと出ていきよったがぞ」

「彼らにも事情があるがぜよ」

海軍塾に残ったのは、陸奥宗光を除いて、土佐出身者だけとなった。


 ――勝センセ、見ていてつかぁさい。わしは、諦めんがよ。こん国を、必ず立て直すがやき。


  

 龍馬は、勝の背にそう誓った。 

 

  --------------------------------【第三部 完】----------------------

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