第13話 西郷吉之助の決断

 大阪・土佐堀川とさぼりがわ――、中之島の南縁を流れる河川だが、その河の近く、土佐堀通りと、あみだ池筋の角に薩摩藩・大坂蔵屋敷おおさかくらやしきがある。

 その日、西郷吉之助はこの薩摩藩・大坂蔵屋敷にいた。

夏の日差しがようやく収まり始めた八月末――、彼はここでも、その男と会うことになった。以前、この二本松藩邸にやってきた幕府軍艦奉行、勝海舟である。


「今度は、なんの用でごわすか?」

 西郷はどんっと腰を下ろすと、勝を見据えた。

 

 ――まったく、こん忙しかぁときに……。

 

 幕府からの長州討伐令は当然、薩摩藩にも伝わっていた。

 長州征伐の総督には、御三家 尾張藩主・徳川慶勝とくがわよしかつで、西郷は参謀に任命されていた。ゆえに暇ではないのだが。

 聞いた話では勝海舟という男は、神戸海軍操練所にて幕臣や諸藩の師弟たちに、航海術などを教授しているという。


 ――まったく、幕臣たちは高みの見物が好きにもほどがある。


 蛤御門の変でも、今回の長州征伐でも、幕府は命令するだけで、動くのは諸藩の人間であった。しかも、長州征伐には莫大な金がかかるのだ。

 勝は、相変わらずの口調で、

「おめぇさんに、頼みてぇことがある」

 と、言ってきた。

「長州征伐のこつなら、無駄でごわんど」

「今日は、そっちじゃねぇ」

 勝はそう言って、苦笑した。

 西郷は、両腕を組んだ。

「…………」

おいらのところにいる者たちを、預かってくれねぇか?」

「ないごて、薩摩が預からんばいかん?」

幕閣ばっかくの石頭連中は、どうも彼らが海軍操練所にいるのが気にいらねぇらしい。海軍塾にいる者は、下級武士や浪人だが、彼らはこれからの日の本を背負って立つ人間となる。その芽を、幕府に摘させるわけにはいかねぇ」

 

 そう言って嗤う勝に、西郷は瞠目した。

西郷は勝も、他の幕臣と同じだと思っていたのだ。

 だが勝は、幕閣に臆することなく西郷の前でその幕閣を揶揄した。

「そげんこついう男は、オイは初めて会いもうす」

「だろうな。幕閣連中からいわせるとおいは、かなり変わっているらしいぜ? ま、お陰で煙たがられるが、そんなことを恐れてちゃあ、前に進めねぇ。西郷どのよ、斉彬公の影響を受けたお前さんならわかるはずだぜ? この国が一番しなきゃならねぇことを」

 西郷は黙した。

 勝海舟という男を、少し誤解していたようだ。


 ――西郷、これからの世は、こげん西洋の船ばが必要じょっと。


 まだ前薩摩藩主・島津斉彬しまずなりあきらが存命だった頃――、鹿児島湾に浮かぶ洋式軍艦・昇平丸しょうへいまるを見つめていた彼が、西郷にそう語った。

 昇平丸は現在は幕府艦・昌平丸と名乗っているが、もともとは薩摩藩が建造した洋式軍艦である。

 

 この国にペリー米国メリケン艦隊が来る前から、異国に目を向けていた島津斉彬。

 異国との力の差は、文久三年七月に鹿児島湾での英国との戦いで証明された。

 このころ西郷は沖永良部島おきのえらぶじまに遠流中の身で薩摩本土にはいなかったが、この戦いでの薩摩藩が被った損害は、台場の大砲八門や火薬庫、鹿児島城内のやぐら、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家、藩士屋敷など、艦砲射撃による火は鹿児島城下を覆ったという。

 以後――、薩摩は攘夷の不可を知り、藩論は開国へ傾いた。

 

「――じゃっどん、オイにはひとつ、わからんこつがごわす」

「なんでぃ?」

安房守あわのかみどのが、そん大事にしとる塾生ばぁを、どけんして、薩摩にあずけもうす? おまさぁが、守ったらよかこつごわんど」

「そうしてぇのはやまやまだが、そこが宮仕えの哀しいところでな」

 それまで軽快な口調だった勝の言葉が、いかにも残念そうなものになる。

 その理由を、西郷が知るのはそれから一ヶ月後のことだった。


 ◆◆◆


「おりゃあっ!!」

 土佐――、坂本家。

 茜の空の下、木刀を勇ましく振り下ろした女人にょにんがいる。

 龍馬の三番目の姉、坂本乙女である。

 今年の坂本家の柿の木では、からすが柿を狙っていた。

 乙女とすっかり顔なじみになった鴉は、木刀で威嚇されただけでは飛んでいかない。

 この乙女の奇声に、家の中にいた兄・権平が何事かと出てきた。

 

「乙女、おまんというやつはなんちゅうことを……! お城に向かって木刀を降るとは、不敬じゃぞ!」

 乙女が木刀を振り下ろした先には、高知城があった。

 土佐では、城に向かってその切っ先を向けることは、不敬とされている。

 ゆえに城下の剣術道場は、竹刀などの先が城に向かないよう建てられていた。

「兄やん、一番悔しいがは龍馬じゃ。友が捕まちゅうになにも出来んと嘆きゆう。ほんぢゃち、うちが変わって、憂さを晴らしゆうがよ」

「お殿様に逆らっょったんじゃ。当然の報いがじゃ」

 武市半平太や平井収二郎、かつて龍馬の遊び仲間だったものたちが獄に捕らわれていることは、乙女も権平も知っていた。

 権平は罰を受けるのは当然というが、乙女は龍馬がどんな想いか思う。

 龍馬は筆まめで、土佐を離れてからも乙女に文を寄越してきていた。

 楽しい内容も多かったが、苦しい内容もあった。


 ――乙女姉やん、こん国は弱虫じゃ……。


 土佐を出ていく時、龍馬は桂浜から海を見つめ、そう言っていた。

 乙女には、世情や侍の世界はわからない。

 だが龍馬は、国を強くしたいという。

 その道程はさぞ、険しいのだろう。

 子供の頃の龍馬なら、己は何もしても強くならないと諦め、ないてばかりであった。

 努力してもなかなか進まぬその課程に、彼はさぞ、何度も唇を噛んだことだろう。

「そりゃあっ!」

 乙女は、再び木刀を思いっきり振り下ろした。

 今度はさすがに、柿の木にいた鴉も飛び上がった。

「上士に見たられたら、どうするがじゃ」

「そんときは、尻まくって、あっかんべーしちゃるき」

「やめんかいっ! みっともない!!」

 権平は叫ぶが、さすがに乙女もそこまでしようとはしない。

 龍馬は言っていた。


 ――いずれ、こん土佐も変わるときがくるがよ。


 乙女は、空を見上げる。

 残陽ざんようは、南嶺なんれい鷲尾山わしおやまも、茜に染めていた。

 鷲尾山はかつて、龍馬と登ったことがある馴染み深い山である。


 ――龍馬、おまんの夢、うちは応援しちゅう。現在のおまんは、ようやく天に羽ばたいたばかりやき、困難もあるじゃろ。けんどの、龍馬。最後まで、おまんの道をいけ。困難など跳返しちゃれ。なぁ? 龍馬。


 沈みゆく夕日に向かっていく鴉を見つめながら、乙女は龍馬に思いを馳せていた。

 

             ◆


 そのころ西郷吉之助は、京・薩摩藩二本松藩邸近くにある、薩摩藩家老・小松帯刀こまつたてわきの邸を訪ねていた。

 小松帯刀は前薩摩藩主・島津斉彬、現藩主・島津忠義しまずただよしと仕え、現在は家老職に就いていた。蛤御門の変においても、西郷と鎮圧に当たったのが彼だった。

 突然やってきた西郷の話に、小松帯刀は眉間に皺を刻んだ。

 西郷は、今回の長州征伐は行うこと行うものの、長州には幕府に対し、恭順の姿勢を取ってもらう策を取るつもりだった。

 

「それで――、そなたはどうするというのか? 西郷」

「こん話は、薩摩にとってもよかこつと、思いもんそ。じゃっどん、薩摩にも意地がごわんど。あん男の話ば、まるまるというわけにはいきもはん」

「尾張さまは、納得されようか?」

 小松帯刀のいう尾張さまとは、今回の長州討伐軍総督にて御三家、尾張藩主・徳川慶勝のことである。

「こん戦、金がかかりもうす。薩摩も英国ばの戦があったばかりでごわんど」

 小松帯刀の顔はまだ渋い顔をしていたが、西郷の話はもうひとつあった。

「して――、御家老」



 それからまもなく――、西郷は大阪・専称寺せんしょうじにむかった。

 専称寺は大阪・海軍塾がある寺である。

 西郷が訪ねた相手は、彼が来ることがわかっていたかのように口の端を吊り上げ、

「で、薩摩はどうするんでぇ?」

 と言って、煙草の煙をくゆらす。

 勝海舟である。

「例の話――、薩摩がお引き受け致しもうそ」

「これで、こころおきなく、あいつらを任せられるぜ」

 勝は、そう笑った。

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