第5話 未開の地・蝦夷、龍馬のもう一つの夢

 ――ほんまに、おかしな男はんや……。


 京・七条新地しちじょうしんち――、旅籠・扇岩おうぎいわ

 お龍こと、楢崎龍はここで働いていた。

 お龍の父・楢崎将作ならさきしょうさくは、青蓮院宮しょうれんいんみや侍医じいであった。

 楢崎家は元々、長州藩の士分だったという。お龍の曽祖父の代に主君の怒りを受け、浪人になっていたらしい。浪人からいかにして、青蓮院宮の侍医となったかは定かではないが、お龍たちはそこそこ裕福な暮らしができた。

しかし、父・将作は勤王家であった。これが、災いした。

 安政の大獄である。

 父・将作は捕らえられ、その後の文久二年には赦免されたものの病死し、残された家族はたちまち困窮した。

 そこでお龍はこの、七条新地の旅籠・扇岩で働くようになり、母・貞は方広寺大仏殿近くの河原屋五兵衛隠居所で、賄いの仕事をするようになったのである。

そんな扇岩の自身の部屋で、お龍は一時前まで母・貞とともに一緒にいた男、坂本龍馬を脳裏に浮かべ、ふっと一人笑った。

 母・貞いわく、河原屋五兵衛は藩に追われて困っている土佐浪人たちを匿っているのだという。


 されど、お龍は侍は好きではなかった。

 この都は、以前は静かだったのだ。

 それが攘夷騒ぎで、人斬りまで横行した。

 三条河原は刑場でもあったため、晒し首には見慣れているが、そう頻繁に刑が執行されるわけではない。

 それなのに、斬られた者の首が翌朝には晒される。

 天誅ということらしい。

 そして、あの難癖をつけてきた浪人である。

 この都が荒れるのは、当然であろう。

 だが侍に対するお龍の評価が、このとき変わり始めている。

 それが、坂本龍馬である。

 ただ、お龍にはもう一つ、嫌いなものがあった。

 

 楢崎龍――、彼女はこの名が嫌いだった。

 おりょうと呼ばれるのにはいいが、龍という字がある己の名には成人してもいい気はしなかった。はたして龍の字を娘に冠したのは亡き父の将作だったのか、それとも母・貞なのか。お龍はその理由を、両親に聞いたことはなかった。

 

 ――男はんみたいな、名前や。

 

 お龍は己の名を、そう感じていた。

 最悪なのは、性格が勝ち気なことだった。

 どうも相手が間違っているとなると、黙っていられない性分なのだ。

 それが名前のせいと云うなら、名付けてくれた親に申し訳ない気もするが。

 なのに、坂本龍馬という男は――。


 ――ええ名じゃ。


 てっきり、男みたいな名と言われるものと覚悟していたお龍は、驚いた。

 そんなことを云われたのは、初めてであった。

 勝ち気な性格も、彼はまったく気にはしていないようだった。


 ――ほんに、不思議な男はんや。


 侍が暴れる京の都――、だが坂本龍馬という男は、彼らとは違う気がした。

 

                ◆◆◆


 元治元年五月二十一日――、摂津・神戸村についに神戸海軍操練所が誕生した。

 現在の日の本の海防は、幕府と藩がそれぞれ軍を持つ状況であった。

 これでは欧米列強の脅威からこの日の本は守れないと、勝海舟は日の本の海軍を創るため、その担い手を育てる海軍操練所建造を将軍・家茂公に直訴したという。

 そしてその海軍操練所がついに、建ったのである。


「いよいよじゃの? 勝センセ」

 勝の元を訪れた龍馬は、兵庫津から沖を見据えて言った。

 果てしなく広がる大海原――、船出のときはそんなに遠くはないことだろう。

「ああ。それで、京の様子はどうだい? 少しは静かになったか?」

 京の情勢を聞いてくる勝に、龍馬は静かに首を振った。

「いんや。上は長州尊攘派が町に潜んでじょるかも知れんと、探しちゅう。センセ、海軍を作っちょっても、その担い手になるかも知れん人間が散るがじゃ」

 龍馬は争いは好まない。

 以前――岡田以蔵に、侍の癖に臆しちゅうがと云われたことがある。

 臆したつもりはないが、現在のこの国の力では異国に敵わないことを知っている。

 逆に幕府は、異国に強く云われると何も言い返せぬ。

 まずはこの日の本の者が一つになり、軍備を整えねばならない。西洋式軍艦に最新鋭の武器、それを以て国を護り、それで異国と対峙する。

 龍馬の想いは、現在も変わらない。

 尊攘派志士とて、この日の本を憂い立ち上がったのだろう。

 ただ、彼らはこの国と異国の差を知らぬ。

 幕府との衝突で、彼らは散ることになる。

 

「だが龍馬、彼らは攘夷は諦めねぇぜ?」

 勝の言葉に、龍馬は空を仰いだ。

「センセ、わしがしちゅうことは、間違っちょるのかのう……」

 目の前の海と同じ青い空――、だが龍馬の心には切なさが広がる。

 それから間もなくのことだった。

 京の河原屋五兵衛隠居所に戻った龍馬の元を、懐かしい人物が訪ねてきた。

 

佶摩きつまじゃないかえ。久しぶりじゃのう」

 北添佶磨きたぞえきつま――、土佐藩高岡郡岩目地村の庄屋の息子だったが、彼も攘夷論者だった。

「実はの、坂本さん。わしらは、センセの指示で蝦夷えぞに行っちょってたがじゃ」

「蝦夷……?」

「北の果てにある地じゃ」


 佶摩いわく、北の大地・蝦夷は、ロシアという異国の脅威に晒されているという。

 未開の地とあって、護りは薄いらしい。

「蝦夷か……」

 龍馬は両腕を組んだ。

攘夷に燃える尊攘派志士たち――、過激な尊攘志士の暴発をやめさせ、この日の本のために、彼らの情熱を蝦夷地開拓と海防に向けさせられれば。

龍馬のなかに、そんな想いが浮かぶ。

 無駄な血を流すことなく、国力の充実を図り、そして異国に対抗していく――、北の防衛のためにも蝦夷開拓は必要だろう。

 龍馬のもう一つの夢が、誕生した瞬間であった。

 そんな龍馬の夢に同調した男がいる。

 北添佶磨が去った、数日後のことだ。

 


「やっぱり、この京におっちょったかえ? 桂さん」

 数人を伴って、龍馬を訪ねてきた男に、龍馬は苦笑した。

 桂小五郎――、その人である。

「坂本どの、君は蝦夷開拓を尊攘派志士にさせようとしているそうだが?」

 はたして誰が桂まで蝦夷開拓の話を持っていったのか――、桂は龍馬の計画を知っていた。

「いかん、かえ?」

 桂の背後いる者たちは、おそらく長州尊攘派だろう。

 今にも抜刀しそうな物騒な視線を、寄越してくる。

 だがたとえ刀を抜かれたとしても、龍馬の計画は怯まない。

 桂の反応を待っていると、彼は意外な答えを寄越した。

「いや……、いい考えだと思っている。ぜひとも、彼らも連れて行ってくれたまえ」

 これに、背後の者たちが慌てた。

「桂さんっ、話が違うじゃないですか!?」

「そうじゃ! 我らをこの都から追いやった薩摩と会津に目にものをみせんと……!」

 どうやら、彼らがここまでついてきたのは、桂が龍馬という男を介し、土佐も攘夷に加えるつもりだと思っていたらしい。

「血気にはやり、命を落としては本も功もないだろう。それに、帝はこの都での騒動を憂いてなされると聞く。これ以上、長州藩の名を貶めるつもりか?」

 桂の言い分は最もである。

 無駄な血を流したくないという想いは、桂小五郎も龍馬と同じだったのである。


                    ◆


 京・四条河原町――、古道具屋・枡屋ますや

 夜も更けて、やってきた男に、枡屋主ますやあるじ枡屋喜右衛門ますやきえもんは商人らしく頭を下げた。

 

「これは、吉田はん、お待ち致しておりました」

 男の名は吉田稔麿よしだとしまろという、長州藩尊攘派志士である。

「他の皆は?」

「二階にお集まりでおます」

 枡屋は一見商家に見えるが、枡屋の二階は、京に潜伏する尊攘派志士の会合場所でもあった。それは枡屋喜右衛門が、実は尊攘派の人間だということゆえだ。

「それにしても――、上手く化けたな? 古高俊太郎ふるたかしゅんたろう

「現在のわては、枡屋喜右衛門でおますさかい。ですが……、攘夷の火が消えたわけではおましまへん」

 吉田稔麿の言葉に、古高はにっと口角を上げた。

 彼が尊攘派に傾倒したきっかけは、尊皇攘夷を唱える梅田雲浜に弟子入りしたことに始まる。

 古高俊太郎が枡屋喜右衛門を名乗るようになったのは、この京・四条河原町で商いをしていた筑前福岡藩黒田家御用達・枡屋を継いだためである。

 以後――古高俊太郎は古道具屋・桝屋を隠れ蓑に、尊攘派志士らと交流し、情報活動と武器調達にあたっていた。

「それを聞いて安心した、古高。いや、枡屋喜右衛門」

 古高の顔に満足したのか、吉田はそういって桝屋に入っていった。

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