第1話 泣き虫少年、坂本龍馬
日没間近――、田んぼに面した一本道を、かの少年は歩いていた。
全身傷だらけで、着ている着物袴も汚れている。
季節は秋――、稲刈りを終えた田は切り取られた株が放置され、茅葺きの家からは煙が棚びき、道沿いのススキが風に揺れていた。
少年は、歯を食いしばって耐えていた。
耐えながら、家路をたどっていた。
茜の空にはトンボが舞い、夕陽が西の山に半分姿を沈めている。
少年が歩いていた道は昨夜に降った雨で
あっと思ったときには体は傾き、一気に低くなった視界は暗くなった。
茶色の泥水が大きく跳ね、少年は泥濘に突っ伏す形となった。
顔をあげると大きな
「う……」
必死に耐えていたものが、少年の目から
少年の名は坂本龍馬、このとき十一歳。
彼の心は、大きく傷ついていた。
みじめで、悔しくてたまらなかった。
顔に作った擦り傷が涙で染みたが、心の傷のほうが痛かった。
なにしろ喧嘩も弱く、泳ぎもできない。
負けるとすぐに泣いて、翌日には泣きっ
今日は同じ年の子らと相撲をしたのたが、彼はすぐに転がされた。次は剣術をしようということになったが、こてんぱんにやられた。
龍馬の家は郷士という下級武士の家で、龍馬は剣術はというと、からっきしだった。
頭のほうも、良いほうではない。
見た目も髪は癖っ毛で、顔には小さな
――見ろや。また坂本の、
道を歩く龍馬を、年上の子たちが嗤う。
泣き虫で弱虫、おまけに
まだ十一歳の子供だったが、いつも誰かに泣かされてこの道を通るため、畑仕事に
龍馬はもちろん、強くなりたいとは思ってはいる。
思っているのだが、身に備わらない。
さすがに自分でも情けなく、よけいに泣けた。
――母上……、わしには無理じゃ。
大きな
欅の下にはすっかり
祀られている地蔵の赤い前掛けもすっかりくすんで、供えられていた花も枯れて変色し、ゆらゆらと風に吹かれている。
姉たちから聞いた話では、母は信心深く、ひっそり立つ祠を見つけ出しては拝んでいたという。
龍馬にとってこの祠に来たのが、母と出歩いた、最初で最後であった。
この年――、その母・
もともと病弱で、
――大丈夫じゃ。おまんはいつか、強かぁ男になるがやき。
そう言って励ましてくれた母は、もういない。
龍馬は
「なんじゃ、また泣かされちゅうがか?」
歩き出したとき、聞き覚えのある声に龍馬は顔を上げた。
「アギ……!」
声をかけてきたのは武市半平太といい、龍馬の七つ年上の青年だ。
アギとはこの土佐の言葉で、
エラが張った面立ちをしていたため、アギという
武市も郷士という身分にいたが、
武市いわく、白札は、長年の功績などが藩に認められた者のことをいうらしい。
しかも武市は、剣術が達者だ。
――さすがは、アギじゃ。
龍馬は幼いながらも、武市を兄のように慕い、誇らしかった。
そんな龍馬に「アギ」と呼ばれて、武市は苦笑する。
「そんな成りで帰っちょったら、家のモンに怒られちゅうがじゃろ。わしのところで、泥を落としちょけ」
武市の言葉に、龍馬は「うん……」と涙声で頷いた。
ほどなく歩き出したところで、武市の足がピタリと止まった。
「まずい……、上士じゃ」
武市がそう、舌打ちをした。
◆◆◆
土佐一国を領する土佐藩には、上士と下士という身分制度があるという。
上士は土佐藩でも高い位置に就き、下士が藩の役職につくことはまずはなく、着るものから履物まで差別され、道の優先順位も上士が先だという。
確かに前方からやって来る数人の男たちは、羽織袴に白足袋と草履である。
いきなり武市に腕を強く引っ張られた龍馬は、そのまま地面に座らされ、頭を上から押される。
ようするに、土下座である。
「なんじゃ? おまんらは」
二人の前で、男たちが止まった。
「
「この汚いガキはなんじゃ? おかしな髪をしちょるのう」
龍馬の視界に、男の白足袋が入った。
思わず顔を上げた龍馬が見たその顔は、侮蔑の笑みを浮かべていた。
「なんじゃ、こいつ。下士の分際でわしらを睨みゆうが?」
男は眉を寄せると、刀の柄に手を伸ばした。
上士は下士が無礼な行動をした場合、斬っても咎めは受けないという。
「藤村、やめちょき。下士なんぞかまうが時の無駄じゃ」
仲間の一人に制され、藤村と呼ばれた上士は刀を抜くことはしなかった。
「下士は、大人しゅう頭を地に擦り付けちょればええがじゃ。小僧、おまんの姿、よう似合っちょるぞ!」
喧嘩に負けた悔しさよりも、一番悔しかった。
同じ土佐の武士でありながら、郷士などの下士は彼らにとって人以下。
龍馬の父と兄は藩主を「お殿様」と尊敬しているが、下士という身分が変わることはないらしい。
「アギ、下士のどこが悪いが? 下士も土佐の侍じゃ。どういて、あげなことを云われなきゃいかんが?」
龍馬は
悔しくて腹が立って、やっと乾いた涙がまた
「おまんは、まっこと泣き虫じゃのう?」
「アギは、悔しくないがか?」
「悔しいがよ。けんど、これが土佐じゃ。大人になればわかるき」
武市はそう言って、龍馬の頭をぽんっと叩く。
だが龍馬の災難は、まだ終わっていなかった。
坂本家があるのは高知城下・
板塀からは柿の木が覗き、枝に留まる鴉が赤く熟した実を狙っていた。
「龍馬! ごけな、遅くまで、何処におっちゅう!?」
敷居を跨ぐまもなく聞こえて来た女性の声に、鴉も龍馬も飛び退いた。
「乙女姉やん……」
乙女は三人いる姉の中で龍馬のすぐ上の姉である。
名前は可愛らしいのだが、これが名前に反して勇ましかった。
やって来た乙女は前掛けにたすき掛けをした姿で、手に火吹き竹を手にしていた。おそらく夕餉の支度をしていたのだろうが、問題はこの火吹き竹が凶器と化すことだ。
龍馬はよく、この火吹き竹で何度も頭を叩かれていたのである。
――わしの頭がこうなっちゅうのは、あの火吹き竹のせいじゃないがか?
龍馬の癖っ毛は、いくら櫛を入れてもすぐに跳ねてしまう。
かろうじて髷は結えたが、その髷も解れてしまうから手に負えない。
なにせ困ったことがあると頭を掻くのが龍馬の癖で、このときも龍馬は頭を掻いた。
龍馬一人で帰宅したのならいいのだが、このときはそうではなかった。
「た、武市さま……っ」
武市の姿を見た乙女は動揺し、火吹き竹を慌てて背後に隠す。
そう、龍馬は武市と一緒だったのだ。
送っていこうと云われ、ここまで一緒に来たのである。
武市は慌てる乙女に対し、静かに苦笑していた。
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