第2話 桂浜のはぐれ松

 坂本家のはじまりは、高知城下にて質屋を商っていた才谷屋だという、

 才谷屋六代目が郷士の株を買い、長男を郷士・坂本家の初代として分家させ、次男に才谷屋七代目を継がせたらしい。

 坂本家は郷士となって歴史は浅いが、本家が城下屈指の豪商とあって下士のなかでは裕福なほうだろう。

 郷士の中には、生活のために郷士株を農民や町人に売却して、下士よりも身分の低い地下浪人じげろうにんとなっていく者も出るようになったという。

 士分の資格と苗字帯刀は許されていたようだが、田畑を持っている場合は半農半士となっていたらしい。

 

「……まったく、おまんという奴は……」

 夕餉ゆうげの場で、兄・権平ごんぺいが眉を寄せてため息をついた。

 今夜の夕餉は芋鍋で、囲炉裏を囲む坂本家の人々は黙々と箸を口に運んでいたが、泣いて帰ってきた末弟に、坂本家嫡男・権平ごんぺいだけは黙っていなかった。

 毎回泣かされて帰ってくる弟に呆れていた権平だったが、この日は龍馬が通っていた寺子屋から泣いて帰ってきた。こうなると権平はもはや、ため息しか出ないようだ。

 龍馬が通っていた寺子屋・楠山塾なんざんじゅくは、高知城下・大膳町だいぜんちょうにあり、楠山庄助くすやましょうすけという男が塾生らを教えていた。

 龍馬は誰に似たのか頑固で、もう塾には行かないと泣いて訴えた。

 権平が呆れつつ、再びため息をつく。

「こういうときは、頑固者いごっそうじゃき、始末に悪い」

 こんこんと説教をされる龍馬に、姉、乙女がからかってくる。

「龍馬、また怒られちゅう」

「乙女、おまんもおまんじゃ。ちくっと、女らしゅうできんが?」

 権平の説教は、彼女にも向いた。

 なにしろ龍馬を鍛えようと、木刀を持って追い回す日々なのだから無理はない。

 権平の叱責に、乙女はにっと笑った。

「兄上、安心しとぉせ。龍馬はうちが強くしちゃるき」

 乙女の言葉に権平は嘆息し、他の二人の姉、千鶴と栄が吹き出す。

 坂本家三代目当主にして、父・八平はというと、眉を寄せたまま椀の汁を啜っている。

 まだ五十路いそじに達してはいないが、顔には深いしわが刻まれ、頭に白髪が交ざり始めていた。


坂本家は当主の八平を筆頭に嫡男の権平、長女の千鶴、次女の栄、三女の乙女、そして次男の龍馬の五人家族である。

 あとは釜炊きの下男、源蔵がいる。

 本家の才谷屋は今や、城下屈指の豪商らしい。

 それまで播磨屋と櫃屋ひつやという店が堀川を挟んで競っていたらしいが、才谷屋が商いを質屋から呉服業などに広げた結果、豪商の仲間入りをしたらしい。

 とはいえ、坂本家の生活は質素で、鍋の中身は大根の葉に芋、青菜や人参、ごぼうと、飯も麦めしのときもある。

 魚は川魚が主で、囲炉裏でこんがりと炙されたその味は、なんともいえぬ旨さだ。

 

 そんな坂本家の中で、龍馬がどうしても視線を運んでしまう空き部屋がある。

 中庭を挟んだ対屋――、夏までここに母・幸が臥せっていた。

 十一歳といえば、まだ母が恋しい年頃である。

 家族が多くても、龍馬が甘えられるのは母だけであった。

 その母がなくなり、強くなるために頑張るという目標を失った龍馬は、ここでも泣いた。

 頭を撫でてくれる優しい手は、もうなかった。


 寒風が吹き始めた晩秋――、濡れ縁に座り、足を垂らしていた龍馬は母がいた部屋を見ていた。

「龍馬、おまんまた、母上を思い出しちゅうがか?」

奥から姉・乙女がやってきて、龍馬の背後に立つ。

「わしには、みんなのように母上を忘れるなんちできんがよ」

「誰も――、忘れとらんよ……」

 乙女の口調が変わった。

 怒っているような冷たい口調で、龍馬が振り向いたときには、どんな表情をしていたかわからなかった。

 ただその手に木刀を見た龍馬は、逃げ出そうと試みたがあえなく失敗、手を引かれる。

「何処に行くが!?」

「黙ってちょき!」

 姉の怒りがいつもと違うことに、龍馬は手を引かれるままになった。

 


                  ◆◆◆


 高知城下から浦戸村うらどむらに向かうと、潮の香りが近づいてくる。

 土佐湾が、近いのだろう。

 そんな土佐湾を望む龍頭岬りゅうずみさき龍王岬りゅうおうみさきの間に、桂浜が広がっている。


「見ぃ、坂本家の仁王さまと、寝小便よばれの末っ子じゃ」

 砂浜で剣術の稽古をする姉弟を、通りすがりの漁師がわらう。その手に収穫した魚はなく、どうやら今日は不漁らしい。

 足摺岬あしずりみさきを中心とする九十九洋近海は、潮の流れが速いうえに餌が豊富らしく、身の締まったサバが育つという。

 龍馬は陰口にも俯いてしまう子供だったが、仁王さまと渾名される乙女は「ふんっ」と鼻を鳴らす。

 龍馬はやはり、乙女には敵わなかった。

 なんどぶつかっても跳ね返され、龍馬一人が砂まみれになる。

 するとまたも泣けてきて、龍馬は涙を拭いた。

「悔しいがか?」

 俯く龍馬に、乙女が問いかける。

 その問いに、龍馬は間をおいて「……うん」と頷いた。

 龍馬は、帰宅時に出会った上士が忘れられない。

 

 侮蔑に満ちた目と、馬鹿にしたわらい。

 下士を、人とも思わぬ上士。

 道が泥濘ぬかるんでいようと、上士と鉢合わせしようものなら道端で土下座をしなければならない。罵られようと口答えも許されない。

 

 下士を罵ってくる上士は一部だろうが、人であることすら否定されては、龍馬のような子供だろうと腹が立つ。

 一緒に遊ぶ仲間たちには泣かされる龍馬だが、彼らは龍馬のことを馬鹿にはしなかった。

 龍馬がいつも泣いてしまうのは、彼らにではなく、己の不甲斐なさにだ。

 

「だったら、見返しちゃれ」

 龍馬が拳をぎゅっと握ると、乙女がそういった。

 だが、どんなに頑張っても強い子には敵わないのだ。

「わしには、無理じゃ」

「龍馬!!」

 乙女の怒号に、龍馬は弾かれるように顔を上げた。

 乙女の目には、涙が浮かんでいた。

 悔しそうな顔で、泣いていた。

「乙女姉やん……?」

「母上はの、いつも言っちょった。龍馬は龍の子、いつかは強くなるが男やき、うちは楽しみじゃ……、て」

「けんど、母上はもうおらん」

「だったら、いつまでも弱虫の泣き虫でいるつもりが? 努力もせんと、諦めてしまうが? 今のおまんを見ちょったら、冥土の母上がさぞ落胆しゆう」

 

 乙女はそれから龍馬を、松原へ引っ張っていく。

桂浜には、松原が広がっていた。

 海からの風が強い地域は防風林として植えられているそうだが、黒潮が流れ込む九十九洋の海は、暴風でも吹かない限り静かである。

 そんな松原にあって、妙に海に突き出した枝がある。

 乙女は、いずれこの枝は龍となって飛び出すのだという。

 龍馬は「そげなことがあるがかえ?」と笑ったが、枝を見上げる彼女の目は真剣だった。

 海に向かって伸びているということは、真っ先に強く風を受ける。

 台風ともなれば海水を浴び、風に枝がしなる。

 それでもこの枝は、折れることはなかったようだ。

 松の枝が龍になるという乙女の話は疑わしかったが、乙女はこの枝が龍馬に見えるらしい。

 

「わしは、こん松のように強くはないっちゃ……」

「おまんは、龍の子じゃき……」

 乙女が枝を見上げたまま、呟く。

 亡き母・幸は、龍馬が龍のように大きくなると言っていたようだ。

「乙女姉やん、わし……、強くなれるかの?」

「こん枝は、強い風にも耐えゆう。折れてなるものかと頑張っちゅう。おまんもそうなれ、龍馬。そして――、龍になるがじゃ」

 

 桂浜のはぐれ松――、仲間に逆らって海に伸びた枝は、なにをそこに求めたのか。

 枝は幹から離れれば、生きてはいけない。

 松という木の、一部にしか過ぎない。

 それなのに、風を直に受ける道をあえて、この枝だけが選んだ。

 竜王岬に鎮座するという海の神は、この枝を龍に変えてくれるのだろうか。


 海から吹く潮風が、砂まみれになった袴の裾を鳴らした。

 母はもういないが、冥土から自分を見てくれている。

 大好きだった母――、意気地なしの我が子をどう思うだろうか。

 龍馬は顔をあげると、言った。

「強くなりたい……」

 龍馬の言葉に、乙女の顔から悔しげな表情は消えて、いつもの彼女の顔に戻っていた。

 

 ――わしは、頑張るき。


 龍馬は松を見上げ、その枝に語りかける。

 いつか強くなる。

 強くなって、威張り腐ったものたちを見返しちゃる――と、龍馬は決意したのであった。   

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