第3話 雨上がりの再会
嘉永三年――、土佐を台風が襲った。
土佐という地は黒潮の影響もあって温暖なのだが、困ったことは台風がよく来ることだ。
坂本家では豪雨が降れば雨漏りは常で、水受け用の茶碗を置くそばから、別の箇所から雨水が落ちてくる。
「めったのぅ……。こりゃ、屋根を直さんといかんぜよ」
青年は頭を掻きつつ、天井を見上げた。
十八歳となった、龍馬である。
坂本家の茅葺き屋根は数十年前に
おそらく、屋根に上ることになるのは自分だろう。
父・八平と兄・権平は、土佐藩山内家代々藩主の
近隣の者たちも手伝ってくれるだろうが、彼らも田畑で忙しい。
「父上たちは、大丈夫じゃろか?」
この雨の中、二人はじっと耐えて墓を守っているのだろう。
父・八平は、もうすぐ還暦である。
雨で、体が冷えねばいいのだが。
雷鳴が轟き、雨の勢いは止まない。
お殿様の墓を守るんは、名誉なことじゃき――。
父と兄は不平不満をいわず、藩の役職を全うするということを誇りにしていた。
郷士のなかで、藩の役職に就いたという話は聞こえてこない。
仮に就いたとしても、上士が就きたがらぬ仕事だったりする。
それだけ下士は、冷遇されているのである。
「龍馬、さっきから、なにを一人で
厨から出てきた姉・乙女が、お玉を持って背後に立っていた。
「乙女姉やん、わしは頑張るがじゃ」
「は……?」
乙女がキョトンとした顔になり、それから困惑げに首を傾げた。
「おまん、頭に雷でも落ちちょったが?」
「姉やん、わしはもう昔とは違うがよ……」
ただ唐突にものをいうため、話が噛み合わない事がある。
この癖は、頭を掻く癖と並んで成長しても抜けない。
龍馬が頑張るといったのは、これから何日か後の仕事のことである。
この二日前、父・八平が龍馬にその仕事をもってきた。
「
龍馬は父の前で、首を傾げた。
「昨年の台風で、四万十川の堤が壊れたことは知っちょろう? 今年は幸い決壊までには至らんかったが、いつ決壊するかわからん。そこで藩は、堤を直すことになったがじゃ。おまんはそこの、差配役じゃ」
四万十川は土佐西部を流れる川で、
しかし修繕となれば、近隣の村々から
差配役は、彼らを指導し指示するのが仕事らしい。
「わしに、人を使うことなどできますかの?」
「龍馬、ありがたく拝命せよ。お殿様の目に留まる機会がぞ」
八平にとっては、
龍馬に出世欲はなかったが、成長して好奇心にも芽生えた龍馬は、この仕事に嫌とはいわなかった。
しばらくして雨がやみ、軒先から雲が割れているのが見えた。
雨漏りとの格闘は一時休戦とし、龍馬は壁に立てかけあった竹刀を手に取った。
「これから、道場かえ? 龍馬」
土間で草履に足を入れていた龍馬の背に、乙女の声が飛んでくる。
この頃の龍馬は、高知城下・
「こん雨で腕が
龍馬はそう言って、家を出た。
割れた雲間からは太陽も顔を出し、葉についた露がキラリと光った。
「龍馬さん、これから道場へ行くが?」
道場へ向かう道すがら、一人の武家娘が声をかけてくる。
「久しぶりじゃのう?
娘の名は
龍馬とは幼馴染みで、遊び仲間の紅一点であった。
島田に結った髪に、
「からかわんといて」
加尾は、そういって頬を朱に染める。
平井家は
「からかっちゃせんがよ。わしが嘘が下手なのは、知っちょろうが。それより、どういてごがなとこにおるがか?」
「龍馬さんのところへ、行こうと思っちょってたがよ。兄上が、持っていきと饅頭をくれたがじゃ。
角兵衛ははりまや橋近くにある饅頭屋で、亡き母・幸が一度買ってくれたことがある。
「あそこの
渡された饅頭を手に、龍馬は視線を落とす。
加尾はいまでも、龍馬の遊び仲間たちから人気だ。
家柄も容姿もいい。
だれが彼女の夫になるか、加尾の話になると最後にはそんな話になる。
――おまんは、女心が少しもわかっちょらん。
以前彼女が坂本家にきたとき、姉・乙女がそういった。
龍馬としては、薄々は気づいていた。加尾の様子にも、己の恋心にも。
だが身分というものが、邪魔をする。
この土佐で、下士の妻となった加尾は周りからはなんと云われるだろう。自分はいい。だが、相手が罵られることは耐えられぬ。
しばらく二人の沈黙が続き、風が木の葉を舞い上げた。
以前、
――下士はの、何処までいっても下士のままがじゃ。
岩崎家は郷士だったそうだが、天明の大飢饉以降に、弥太郎の曾祖父が郷士の資格を売り、岩崎家は地下浪人となったという。
苗字帯刀は許されているとはいえ、身分は下士の下。
貧困と上士への怒りが、弥太郎に火をつけたのだろう。
彼にすれば、どうすればこの土佐で生きていけるかという龍馬の悩みなど、甘いものに映るらしい。
ただ、弥太郎のように学問のほうは難しく、剣の腕に頼るしかないのだが。
◆◆◆
あの
「地蔵さま、食べるかえ?」
龍馬は
昔は散々泣いて通った道だが、景色はその頃とは変わっていない。
田には稲が育って青く茂り、イナゴが食べ頃の時期を狙っていた。大発生すれば、農村にとっては厄介極まりない虫である。
米が採れなければ、年貢は治められない。これに藩は対策として、下士たちを集めてイナゴを追わせる。
数十人が田に入り、稲を傷つけないようにイナゴを追い払うのだ。
しかも、活躍すれば藩主に名を売れるかも知れないという期待もあるようで、彼らは我先にと動く。当然、龍馬の父・八平と兄・権平もその中のひとりであった。
それでも、イナゴはやって来る。
米の旨さは、イナゴのほうがよく知っているかも知れない。
さてそろそろ行くかと龍馬が腰を上げたとき、道の向こうから、羽織袴の男が数人やって来るのが見えた。上士である。
龍馬は道脇に座り、頭を下げた。
「藤村、どうしちゅうが?」
男の一人が止まったらしく、仲間が声をかけている。
「なんじゃ、下士じゃないがか。知り合いかえ?」
「いんや。相変わらず、
「確かにの」
藤村の言葉に、仲間たちが嗤う。
だが、龍馬は藤村という男を覚えていた。
十一歳の秋――、武市半平太と一緒にこの道を歩いていた龍馬は、彼らと出くわした。
――下士は大人しゅう、頭を地に擦りつけちょればええがじゃ。
まだ十一の子供に、藤村はそういって
あのときは、悔しくて仕方がなかった。
抗議すれば無礼討ちされるのが、下士という身分である。
口も手も出せない上士、彼らに対抗するには己の心と腕を強くするしかない。自分に誇りが持てれば、罵られようと悔しくはなくなる。
それからの龍馬は、必死に剣術を学んだ。
龍馬はもう悔しくても、泣くことはなくなった。
――わしは、おんしらのような、侍にはならんがよ。
去っていく彼らの背を見送り、龍馬は心のなかで訴える。
決して、人を見下す人間にだけにはならないと。
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