第3話 その名は、才谷梅太郎

 年が改まり、元治元年――。

 京・鴨川沿いを、その女は足早に歩を進めていた。

 三本木置屋さんぼんぎおきや瀧中たきなか芸姑げいこ幾松いくまつである。

 刻限は午後十七時暮れ六つ――、日はかなり落ちて、通りの店の軒下に灯りが灯り始めた。

「こら、幾松やないか?」

 二条大橋の近くで、幾松の足を一人の商人が止めた。

「これは大野屋のだんはん、おばんどす」

 幾松に声をかけてきたのは、寺町通りで仏具商を商う大野屋主・大野屋喜平おおのやきへいであった。

「そんなに急いでどないした?」

「え……」

 幾松は、言葉に詰まった。

 幸いこの日は、座敷の予定はなかったのだが。

「ここら辺りは物騒や。女子おなごひとりでは危険とちゃうか?」 

「おおきに。知り合いが近くにいるさかいに、訪ねる所んどす」

 

 嘘ではない。

 幾松は、その人物に会いに行く途中だった。

 ただ――、世間一般でいう知り合いとは少し違うが。

 大野屋喜平はそれ以上追求してくることはなく、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「そうか、気ぃつけよし。また座敷で遊ばしてもらうよって」

 大野屋喜平をやり過ごし、幾松は周囲を確認して土手を下りた。

 さすがに、この刻限に暗くなりつつある河原に下りるのは勇気がいったが、それにも勝る彼女の想いが背を押した。

 

「――桂はん、うちや」

 二条大橋の下――、暗がりで影が蠢いた。

「誰にも怪しまれなかったか?」

「馴染みの旦はんに、会いましたえ」

「ほう……」

 出てきたのは、一人の乞食である。

 頬被ほおかむりに擦れきれた着物、覗いた顔は泥で汚れている。

 まさかこの乞食が、桂小五郎だと誰も思うまい。

「うまくごまかしたさかい、大丈夫でおますやろ。それにしても――、あんじょう上手く化けましたなぁ? せっかくの男前が台無しや」

 桂の化けっぷりに、幾松は笑った。

 政変にて長州藩は京を追われたそうだが、すべての長州藩士が国許に戻ったわけではないらしい。

 桂は、自信たっぷりに答えた。

「言っただろう? 私は捕まらんと」

 

                   ◆


 京・大和大路通やまとおおじどおり――。

 大和大路通は鴨川と並行し、三条通より大仏門前だいぶつもんぜんを経て、泉涌寺道せんにゅうじみちまでの間を南北に通じるみちで、古くは大和街道にあたるので、この名がある。

 大仏南門・河原屋五兵衛かわらやごべいの奉公人・友蔵はこの日、獣肉屋で軍鶏を買った。

 ここ最近、河原屋五兵衛の隠居宅に居着き始めた浪人の一人が、軍鶏鍋を食いたいと言い出したためだ。

 河原屋五兵衛宅に居着いている浪人はざっと数名、昨今の都の情勢から考えると、関わるのはやめたほうがいいと主に言ったが、河原屋五兵衛は「難儀してはるのや。助けなぁあかんやろ」と彼らに隠居宅を貸して、己は本邸に移った。

 このとき友蔵はなんと云われたかといえば「お前はかれらの世話をしよし」ときた。

 まぁそれはいいのだが、獣の肉を好んで食らおうとする行為がわからない。

 

 ――どうしてわてが、こないなけったいなモンを……。

 

 もはや獣肉を食すのは珍しくない世となったとはいえ、羽を毟られた挙げ句、バラバラにされた軍鶏を見た途端、友蔵は総毛立った。

 そもそも獣肉屋など、この都にはなかったのだ。

 これも開国によって、異人がこの国に来たせいだろうか。

 

 河原屋五兵衛宅に戻ると、友蔵に軍鶏を買いに行かせた男――才谷梅太郎が、火鉢の前で待っていた。

「ご苦労じゃったの」

「他の方々は、お出かけでっか?」

「野暮用じゃ」

 才谷梅太郎は火鉢に小鍋を乗せ、出しと醤油の割り下で軍鶏を煮込み始めた。

 友蔵は侍といえば怖いものという認識でしかなかったが、この男は鍋を前に、期待に心を躍らせる子どものような顔をしていた。

 着古した黒羽二重の紋服に馬乗り袴、癖っ毛の頭、訛りから関東の人間ではないだろう。

 

 ――やはり変わってはる。


 

 しばらくして鍋が煮えてきたのか、座敷中に充満する鍋の臭いに、友蔵は眉を顰めた。

「よくもそんなモンが食えますなぁ……。梅太郎はん」

「異国ではの、肉を良く食うそうじゃ」

 才谷梅太郎は、鍋を箸で弄りながら答えた。

「ここは異国じゃおへん」

「そうじゃが、わしにとっては軍鶏鍋は子供の頃から食っちょるき、普通じゃ。たくさんあるき、食うかえ?」

「結構どす」

「美味いに……」

 残念がる才谷梅太郎に、友蔵は話題を変えた。

「それより、坂本龍馬という御仁を知ってはりますか?」

「さぁ……、知らんのぅ。その男が、どうかしちゅうが?」

 才谷梅太郎の視線は、鍋に向いている。

「帰って来る際、見廻組みまわりぐみの人に聞かれたんです。なんぞ、したのでっしゃろか?」

 京見廻組――、京所司代、町奉行所と京にはあるが、幕府はこれに二つの取り締まり方を放ってきた。一つはその京見廻組、もう一つは壬生浪士組である。

「おまんは、知りたがりじゃの」

 友蔵の言葉を、才谷梅太郎はそう笑った。

 他の浪人たちが戻ってきたのは、それから暫く経ってのことであった。

  

                 ◆◆◆


午後二十時宵五ツ――、男たちが集う座敷で、行灯の灯りが揺らいだ。

 そこにいたのは、望月亀弥太、千屋寅之助ら数名、そして――。


「――それより、龍馬」

 彼らの中で、真っ先に座敷に入ってきた中岡慎太郎が口火を切った。

「今のわしは、才谷梅太郎じゃ。忘れんでとぉせ」

 才谷梅太郎――それが、龍馬の現在の名である。

 といってもこの名を使うのは、潜伏している間だが。

「役人が、おまんを探しちょる」

「――らしいのう……」

 この少し前――、軍鶏を買いに行かせた友蔵が、見廻組に坂本龍馬を知らないかと聞かれたと言っていた。

「おまんなぁ……、こんなこがなときによく落ち着いてられるのう」

「わしはなんも、悪いことはしとらんがよ」

 嘘ではない。

 龍馬は見廻組など、役人に狙われるようなことはしてはいない。

「それなら、おまんを探しちゅう?」

 中岡の問いに龍馬は、ひとつだけ心当たりがあった。

「役人がわしを探しちょるのは、別の理由ぜよ」

「別の理由?」

 中岡が、眉を寄せた。

「わしが、長州藩士と接触しちょうたからじゃ」

 これに、一同が瞠目した。


 土佐勤王党にいた頃――、龍馬は一度だけ、長門・萩に行っている。

 そこで久坂玄瑞と知り合ったが、その以前に桂小五郎とも知り合っている。

 八月十八日の政変にて、長州藩士はこの京を追われた。

 されどそれで彼らが引き下がるとは思えない。

 彼を追い出したのは、朝廷の公武合体派公家と薩摩、会津など幕府寄りの藩だという。

 彼らも長州藩がやすやすと京から出ていくとは思っていないのだろう。

 何処かに潜伏しているに違いない――、そう思ったからこそ、探索しているのだ。

 

「けんど、そのそん時のことを探り出してくるとは、幕府の役人はさすがじゃの」

「感心しちゅう場合じゃないぜよ。龍馬」

「心配せんでも、わしが捕まることはないがよ。役人が本当に探しちゅうがは、この都に潜んでいると思っちゅう長州藩士じゃ」

「おまんは、彼らの居所を知っちゅうがか?」

「いいや、知らん」

 これも、嘘ではない。

 そもそも、長州藩尊攘派志士とはそんな親しい関係ではないのだ。

「――土佐のことを、聞いちょるか? 龍馬」

「容堂公が、勤王党を片っ端から捕らえちょることかえ?」

「下士たちは、厳しい拷問をされちゅう話じゃ。武市さんは白札やき、拷問は免れちゅうが、やはり上は、吉田東洋を斬った下手人を吐かせたいらしいの」

 

 龍馬が才谷梅太郎を名乗りだしたのは、土佐勤王党弾圧を受けてだ。

 この京にも、土佐藩邸はある。

 藩は龍馬もかつては、土佐勤王党にいたことを掴んでいるだろう。

 吉田東洋殺害には絡んでいないが、龍馬も潜伏しているだろう長州尊攘派志士と同じく、捕まるわけにはいかないのである。

 神戸海軍操練所は、もうすぐ完成する。

 この国を強くしたいという龍馬の夢は、実現へ向けて走り始めたばかりなのである。

 

「――以蔵に、会ったかえ?」

 龍馬の問いに、千屋寅之助が眉を寄せた。

「そういえば、ここ最近以蔵の噂を聞かんのう……」


 勤王党弾圧から京で横行していた天誅が、ぴたりと止んでいた。

 この京で、人斬り以蔵として名を馳せている岡田以蔵。

 天誅と称する幕府要人への殺傷行為をやめるつもりはないと言い切ったという彼は、今何処でなにをしているのだろうか。

 

 

 

 

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