第2話 計画された真夏の政変

 京守護職にして会津藩主・松平容保が御所を辞したその日――、しょうれんいんみやそんゆうにゅうどうしんのうが御所に参内した。

 これに合わせ、公武合体派の公家・現関白の二条斉敬にじょうなりゆきらが密かに御所、控えの間に集まった。彼らにとって、今が瀬戸際なのである。

 

 現在の朝廷は、尊攘派そんじょうはの天下である。

 この攘夷派公家に呼応したのが、西国雄藩・長州藩だった。

 問題は、帝も眉を寄せる横暴である。

それが、大和行幸やまとぎょうこうみことのりである。

 大和国の神武天皇陵・春日大社に行幸、しばらく逗留して親征の軍議をなし、次いで伊勢神宮に行幸するというものだったが、これは帝の真意により出たものではなく、三条実美さんじょうさねとみら急進派公家が主張したものだった。

 

急進派かれらには、困ったもんや」

 青連宮は扇子を開き、眉を寄せた。

 これに、公家の一人が口を開く。

「そうや。主上おかみもお困りおそばしてあらしゃられる。このままやと、我らも岩倉卿いわくらきょうと同じになりますやろなぁ」

 

 岩倉卿とは、ちょうど一年前、朝廷を去らざるを得なかった岩倉具視いわくらともみのことである。

 岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのだが、京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことなどから尊攘派から嫌われ、彼らは岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになったらしい。

 しまいには辞官と出家を申し出るよう命じられ、岩倉は辞官して出家。こうして岩倉は朝廷を去ったのである。

 

「宮様、主上おかみのお心を煩わせる奸臣かんしんを、今のうちに摘んでしまわなぁいけまへん」

 問われずとも、青連宮の心は決していた。

 すでに薩摩と会津の両藩が、計画に乗っていた。

 帝は、暴走する尊攘派にお困りあそばされておられる。

 大義名分は、こちらにあるのだ。

 一同はこころを一つにし、を待った。


           ◆


 八月十八日――、関白・たかつかさすけひろていにて、三条実美以下、尊攘派公家が集まっていた。


 ――御所にいる公武合体派が、何かしら企んでいる。

 

 この報せに、三条実美さんじょうさねとみは眉を寄せた。

 かつて彼も、公武合体派であった。しかし、和宮降嫁と引き換えとなった攘夷実行を、幕府は一向にしようとはしない。早々に尊攘に転換した三条実美は、当てにならぬ幕府より、攘夷実行に動いた長州藩に期待した。

 これで幕府の権威がさらに落ち、王政復古となれば文句はないのだが。

 公武合体派の岩倉具視を政局から追いやったのは、彼である。

 あとは近衛関白家このえかんぱくけを通し、朝廷に影響力を持つようになった薩摩である。

 前関白・近衛忠煕このえただひろとその息子・近衛忠房このえただふさは、ともに薩摩島津家から妻を迎え、島津家国父だという島津久光は、公武合体には積極的だ。

 

権中納言ごんちゅうなごんさま、急ぎ参内せなぁ、えらいことになりますやろ」

 尊攘派公家の一人、四条隆謌しじょうたかうたが三条実美の決断を促す。

 鷹司邸には、一部の長州藩兵もいた。

 薩摩と会津の動きが、なにやら怪しいというのだ。

 事情を聞きたくとも、鷹司邸の主である関白・鷹司輔煕は参内したまま帰ってこない。

 ここから一番近い御所の門は、長州藩兵が警備に当たる堺町門さかいまちもんである。

 彼らは胸騒ぎを覚えつつ堺町門へ向かうが、薩摩・会津藩兵に行く手を阻まれた。


「――ここから先は、お通しいたすわけにはいきもはん」

 薩摩藩士の一人が、槍で三条実美たちを押し留めてきた。

 会津藩兵の近くには、壬生浪士組までいる。

「これはどういうことや!」

「既に朝議で決まりもうした。方々には、御所への参内を禁ずと」

 朝議? そんな話は聞いていない。

 三条実美は、自分たち抜きで物事が決まったことに唇を噛んだ。

 公武合体派の企みは、このことだったのだ。

「権中納言さま、これはどういうことですやろ? なにゆえ、ここに薩摩と会津がおりますのや?」

「こないな馬鹿なことがあるわけがない。入るさかい、そこを退きや!!」

 三条実美は声を張るが、薩摩・会津両藩兵は譲らない。

「なんど申されてもお通しするわけにはいきもはん。長州の方々も引くがよか」

 これに、長州藩兵も憤った。

「ふざけるな! この堺町門は、わしらが警備する門じゃ!」

 なんと、朝廷の公武合体派は御所の全ての門を閉じた上、尊攘派公家七人と長州藩勢をしめだしにかかったのである。

 さすがに、御所を前では武力衝突ははばかれる。

 長州藩兵も、悔しさを顔ににじませていた。

 

 このような形で、朝廷を追われるとは――。

 

 俗に言う、八月十八日の政変である。

 

                 ◆◆◆


 この日も、朝から暑い日であった。

 龍馬は海軍塾塾頭となり、神戸海軍操練所建造に向けて相変わらず各地を飛び回っていた。

 そんな龍馬は久しぶりに伏見・寺田屋を宿とし、羽を休めることにした。

 京の治安悪化が、気になったのである。

 そこへ、長州藩が都を追われた――と噂が耳に入った。

 薩摩、会津、そして朝廷の公武合体派公家による巻き返しは見事なものだったらしいが、長州藩は追い詰められた形になっただろう。

 馬関海峡で米国とフランスの報復攻撃で痛手を食らい、今度は京から出ていけと云われたのだから。


 ――桂さん、どんなどげな心境じゃろうの……。


 桂小五郎いわく、長州藩は攘夷に熱いという。

 二度の敗戦ぐらいでは、攘夷の炎は消せぬという。

 そんな龍馬の元に、土佐の近況を知らせる文が届いた。

 追い詰められたのは、土佐勤王党も同じだった。

 やはり前土佐藩主・山内容堂は、土佐勤王党弾圧をはじめ、武市半平太たちを捕らえたらしい。

 もし死罪となれば、龍馬はまた盟友を失う。


 ――武市さん、わしはどうしたらどういたらええがじゃ。皆を救うには、どうしたらどういたらええ? もう誰も失いたくないがよ。それなのにそうぢゃにどうしてどういて……。


 龍馬の心の叫びに、答えはどこからも返ってくることはなかった。

 ただ、蝉がうるさく鳴いていた。

「どないしはりました? えろう暗い顔をしてますえ?」

 寺田屋女将・お登勢がやってきて、首を傾げた。

「少し暑さにやられただけやき、大丈夫じゃ」

「それならようおますのけど」

 眼下に流れる高瀬川――、その流れはやがて鴨川と一つになり、都を駆けるという。

 ふいにその川が、故郷・土佐の鏡川に見えた。

 鏡川の上流は大きい岩場で、子供の頃の龍馬は同じ年の子らと飛び込みに興じていた。

 高い場所から川に飛び込むのはちょっとした度胸試しだが、龍馬はこれができなかった。



「龍馬、何しちゅう! 早う飛び込まんね」

 はやし立てる声に、龍馬の決断は鈍る。

 怖くて、勇気が出なかった。

 結局後ろから押され、川に落ちた龍馬は溺れる羽目になった。

 泣いて帰った龍馬に、姉・乙女は「それでも男か」と怒った。

 それからの龍馬は、鏡川で水練の特訓をさせられた。


「龍馬、早くんね」

「龍馬、早う」


 懐かしき友の声が、龍馬の脳裏に蘇る。

 だがもう、あの頃には戻ることはできない。

「女将、三味線持っちょるかえ?」

 龍馬の言葉に、お登勢が瞠目する。

「ありますけど、龍馬はん、お弾きにならはるのどすか?」

少しちくっとの……」

 龍馬は三味線を抱えると、弦を弾いた。


 おかしなことよな~

 はりまや橋で、坊さん、かんざし、買いよった

 ハアヨサコイヨサコイ


 龍馬が唄ったのは、土佐のよさこい節だった。

よさこい節の元となったのは、安政二年――高知城下、五台山竹林寺ごだいさんちくりんじ脇坊わきぼうの僧・純信じゅんしんが起こした、ただならぬ男女関係だという。

 純信は五台山長江ごだいさんながえ鋳掛屋新平いかけやしんぺいの娘・お馬に恋をしたという。

 しかし同時に、弟子の慶全けんぜんも、お馬に恋をしたらしい。

 慶全は播磨屋橋はりまやばしにて、お馬にかんざしを買い与えようとしたが、お馬は受け取らなかったという。お馬の心は、純信にあったようだ。

 これを根に持ったのか、慶全は純信とお馬の関係を言いふらし、噂が広まってしまったそうだ。

 純信とお馬は讃岐に駆け落ちしたらしいが、追っ手に捕らえられ、市中にさらされた上、純信は藩外追放に、お馬は仁淀川以西へ追放処分となったという。


 そんなよさこい節だが、土佐ではかなり人気だった。

 脱藩してから帰っていない、故郷・土佐――。

 国のために奮起した多くの友が、無情にも散っていく。

 やりきれない想いが、龍馬の心を締め付ける。

 龍馬にとって友とは土佐勤王党だけではなく、桂小五郎や久坂玄瑞らの尊攘派も、国を憂う同志であった。

 窮地に立たされた土佐勤王党と長州藩――、彼らを救う術はこのときの龍馬には、浮かんでこなかった。

  

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