第5話 人の心は、難しけり

 薩摩藩家老・小松帯刀こまつたてわきは、長崎にいる小曽根こぞねという豪商に会ってみてはどうかと言った。

 これに、龍馬は瞠目した。

「小曽根って、もしかしてあの小曽根乾堂こぞねけんどうどのかえ……?」

「小曽根どのば、知っちょっと?」

 まさかここで、小曽根乾堂の名を聞くとは思っていなかった龍馬である。

 

 龍馬はその小曽根乾堂と、面識があったのである。

 元治元年――、龍馬は勝海舟とともに、長崎に行き、小曽根乾堂に会っていた。

 その時は顔合わせ程度だったが、人の縁とは実に不思議だと龍馬は思ったのだった。

 

「勝センセと一度、会うただけじゃき」

「そいなら、話がはやか。勝安房どのの繋がりがあっならば、力を貸してくれるじゃろ」

 資金援助を最初は渋っていた小松帯刀だが、背に腹は代えられないらしい。

 足らぬ兵糧を賄ってくれるなら、藩の損失は少なくすむと思ったのだろうか。

 龍馬にすれば、利用されているとわかっても、薩摩を味方につけたことは大きかった。

 なにしろ、元海軍塾生の手で船を操作できるのだ。

ただひとつ気がかりなのは、妻・おりょうのことである。

 

 

「――長崎に行きなはるそうですなぁ?」

 京・伏見、寺田屋――。

 長崎に行くことになったと告げに、龍馬は京にいるおりょうの元にやってきていた。

「仕事じゃき」

「長崎には、丸山という所があるそうどす」

 いつもと違って、強く見つめてくるおりょうに、龍馬は仰け反った。

「なんか……、恐ろしかぁ目を、しちょるぞ……? お龍」

「女将はんが以前、言ってはりました。龍馬はんは女子おなごはんにもてはるさかい、気ぃつけんと捕られてしまうえ?と」

「まだそげなことを気にしちょるが?」

「龍馬はん、ほんに他に女子おなごはんは、いいひんのどすか?」

 

 見つめてくるおりょうの目とかち合い、龍馬は言葉に詰まった。

 江戸には許嫁・千葉佐那子がいるのだ。

 その佐那子を差し置き、龍馬はおりょうを妻とした。

 おりょうはそのことを告げたら、どんな反応をするだろうか。

 許嫁を捨てた薄情な男と思うか、それとも佐那子にまだ気があるのではとやきもちを焼くか。

「はは……、今日はええ月じゃの」

 鋭いおりょうの疑問に、龍馬は欄の方におりょうの視線を導いた。

「月など出ていまへんえ」

 確かに今宵は、月など出てはいなかった。

 龍馬も正直にいえばいいものを、かえって己を追い込んでしまった。

「…………」

 結局佐那子のことは告げられず、二人の間に妙な間があく。

「龍馬はん?」

 立ち上がった龍馬に、おりょうがさらに追求してくる。

「小便じゃ」

 思わず、その場から退散した龍馬である。

 そういえばと、龍馬は足を止めた。

 その佐那子も、お龍と似たようなことを言ったのだ。

 そうあれは――、江戸湾に近づく異国船を警戒すべく、品川警備に駆り出されたときである。

 

 ――坂本さま、あちらではくれぐれもご用心を。


 そのとき龍馬は、佐那子がなにを言いたかったのかわからなかった。

 まさかその品川で、遊女と同衾しかけるとはおもわなかったが。

 彼女には悪いと思っている。

 なぜ佐那子ではなく、おりょうを妻に選んだのか。

 龍馬と同じ『龍』の字を名前にもつ女、姉・乙女に似た性格で、男勝り。

 嫉妬してくるなど、可愛いところもある。

 家事は苦手のようだが、ほとんど一緒にいないため、龍馬が困ることはなかった。

 こんな落ち着かぬ亭主である。とうに見限ってもおかしくはない。

 それでも彼女は、辛抱強く待っていてくれる。

 

 ――いつかおまんと、わしの船で異国へ行くのもええの? おりょう


 世が静まれば、夫婦水入らずのときがくるだろう。

 そのときに、ゆっくり話そう。なにもかも。

 龍馬は廊下で月のない空を見上げた後、おりょうのいる部屋へと戻っていった。


 ◆◆◆


 慶応元年閏五月五日――、このとき、桂小五郎は長州に戻ってきていた。

 龍馬は長州側を説得するため、長門・下関に入った。

 長州を救う道は、薩摩と手を結ぶしかないと言うためである。

 桂は突然やってきた龍馬をみて、胡乱に眉を寄せた。

「坂本どの、幕府の目があるというのに大胆すぎるぞ」

 桂いわく、長州には幕府の見張りが紛れ込んでいるらしい。

「大胆なことのついでに、もっと大胆な話があるがじゃ」

龍馬は頭を描きつつ、話を切り出した。

 桂は冷静沈着で、顔色を変えることなど滅多にない男だったが。


「坂本どの――、君はあの、薩摩と組めというのか?」

 桂の表情が、長州と薩摩が組む話を出した途端、一気に険しくなった。

「長州の心情は、わかっちゅう」

「いいや、わかっていない。薩摩は二度も、長州を京から追い出したのだぞ?しか

も最初の政変時は、単に攘夷派が邪魔という理由で、だ!」

 

 不意を付く形で京から追われ、警備を担当する禁門からも解任され、しまいには藩主・毛利敬親まで京を追われた。

 弁明のために動けば、今度は朝敵とされた。

 確かに、桂も憤るのは最もである。

 長州藩士の多くは、すべて薩摩のせいと思っているという。

 

「けんど桂さん、このままでは長州藩は滅ぶぜよ。幕府と、どうやって戦うが?」

 龍馬の指摘に、桂の表情が緩む。

「――痛いことを聞く……」

「ほんぢゃき、ここは薩摩を利用するがじゃ。それならばええじゃろ?」

「薩摩を理由する……?」

「実はの、わしは長崎で船で物資の仲介をする仕事を始めゆうがよ。わしもここは、薩摩を利用させてもうがじゃ。桂さん、足りない武器はわしらが調達するき、まずはわしを信じてとぉせ」

 

 桂はしばらく考えていた。

 だが直接薩摩と組むのを躊躇するなら、龍馬たちが間に入れば、敵対感情も薄れるのではないか。

 つまり、薩摩名義で龍馬たちが異国から船と武器を買い、これを長州が受け取るというものである。

 そんな龍馬を、桂ともう一人、心配する男がいた。


「――高杉さん……?」

 佇む人影を捉え、龍馬は瞠目した。

「長州のことを案じてくれるのは嬉しいが、幕府は君も我らと同類とみなすぞ」

 高杉晋作は、そう警告した。

「承知の上じゃ。わしも、幕府にもう力がないのは知っちゅう。ほうやき、新しく国を作り変える必要があるがじゃ。幕府に睨まれるのは当然じゃき」

 龍馬の覚悟を知って、高杉は苦笑した。

「坂本さん、万年屋で初めて会ったのを覚えているか?」

 それは龍馬と武市半平太、久坂玄瑞と高杉晋作が集まった、一夜限りの邂逅かいこうである。

「懐かしいのう」

 


 時は文久二年十一月十二日、

 このとき龍馬は、江戸城辰ノ口にある伝奏屋敷にいる、武市半平太に会っていた。

 武市半平太は朝廷からの勅使・三条実美に付き添って、江戸城辰ノ口にある伝奏屋敷に滞在していた。

 このころの武市は、朝廷工作をしていた。

 長州藩世子・毛利定広が入洛して国事周旋の勅命を受け、これにより長州藩では攘夷派が優勢になり、破約攘夷が藩論となっという。

 武市は長州と同様の勅命を土佐にも下させるべく、動いていたのである。

 そんな伝奏屋敷に、高杉晋作と、今は亡き久坂玄瑞がやってきたのだった。

 その後、万年屋で一献、という話になった。

 ところが、この日久坂が語ったのは、横浜の異人館を襲撃し、異人を殺害するという過激な攘夷策だった。高杉らとともにすでに準備を進めており、そのことを武市に同意してもらおうというのが、久坂がこの席をもうけた意図だったのである。

 しかし龍馬と武市は、賛同はしなかった。龍馬らも攘夷論者ではあったが、異人館襲撃などという、過激で単純な攘夷行動には賛成することはできなかったのだ。

 


「坂本さん、長州はもう攘夷は無謀だとわかった。だが、長州はこのまま終われぬ。亡き師と盟友の遺志は、この高杉晋作が引き継いだ」

「――倒幕かえ……?」

「そうだ」

 龍馬の言葉を否定することなく、高杉は倒幕の意思を認めたのだった。

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