第11話 龍馬、風邪をひく

 慶応二年――、一月。

 朝から冷え込んだこの日は、何処にいても寒かった。

 空は晴れて、冬にはめずらしいやわらかな日射しが、降りそそいでいる。

 吐く息だけが白い。

 龍馬は両腕を組み、空を見上げていた。

 刻限は、ひつじの刻ほどだろうか。


 ――いよいよじゃ……。

 

 龍馬ははなをすすって、鼻の下を指で擦った。

「今年は、まっこと、寒いひやいのう」

 龍馬はぶるっと、体を震わせる。

 桂小五郎からの書状によれば、彼は十日の間に京へ行くという。

 京・薩摩藩二本松藩邸にて、西郷吉之助と会談するためである。

 下関の会見では西郷の思わぬすっぽかしで頓挫とんざしかけた二藩の関係だが、薩摩藩名義での武器購入を機に、長州藩と薩摩藩は再びお互いに向き合うとしていた。

  

 長崎・亀山――、かつて亀山焼職人の住居を長崎豪商・小曽根乾堂から拝借し、亀山社中本拠地となったその中で、池内蔵太いけくらたが胸を張った。

「それで、じゃ」

 これに陸奥宗光が眉を寄せ、やれやれと大仰おおぎょうに嘆息した。

「また始まったぞ……。内蔵太くんの自慢話が……」

池内蔵太も、龍馬の古い友である。

 土佐勤王党にもいたが、龍馬に遅れること文久三年五月に脱藩したという。


「そこでわしは、向かって来ゆう敵を――」

 内蔵太は、うんざりとした顔の仲間たちを前に、武勇伝を語り始める。

 なにしろ、この話を何度も聞かされるのだから、仲間たちが辟易へきえきするのも無理はない。

 中には興味を持つ人間もいて、

「斬ったが!?」

 と話を煽るものだから、内蔵太の武勇伝話はこれからも続くことを覚悟しなければならないと、仲間たちはこれまた大仰に「はぁ……」と長嘆ちょうたんした。


 池内蔵太は土佐を脱藩後――、吉村寅太郎を中心とした天誅組の大和挙兵に幹部として参加したらしい。

だが八月十八日の政変により長州藩や攘夷派公卿や浪士達が失脚し、攘夷親征を目的とした大和行幸は中止となり、挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となったという。

 その後、長州に落ち延びた内蔵太は、諸藩の脱藩浪士が中心となって結成された忠勇隊を指揮し、蛤御門の変にも参加したという。

 長州の異国船襲撃の際には、遊撃隊参謀として参戦したと彼は語る。

「どうじゃ! 凄いじゃろ」

 複雑な顔の仲間たちに、龍馬は苦笑した。

 確かに内蔵太の活躍は凄いが、同じ話に何度も突き合わされる仲間は災難だろう。


「龍馬さん、幕軍の動きは?」

 千屋寅之助が、龍馬を振り返る。

「大丈夫じゃ。まだ大阪にいちゅう話やき、この間に長州藩に武器を運んじょってくれ」

「任せてつかぁさい! 必ず、幕府の鼻を明かしてやるきに」

 実に頼もしい、仲間たちである。と、ここで、龍馬は大きなくしゃみを二回も放った。

「風邪かえ? 龍馬さん」

「なんちゃあない。こがな時に風邪を引くは、軟弱者と土佐にいちゅう姉に怒られるきにの」

 そう――、子供の頃の龍馬は、風邪を引いたといえば姉・乙女に頭を叩かれ怒られていた。痛いと泣けばまた怒られ、寒い中を外に引っ張り出され、剣術の稽古をさせられるときもあった。

 だがそれがなければ、龍馬はいつまでも泣き虫で弱虫のままだったであろう。

 その姉の期待にも応えるべく、まずは長州藩と薩摩藩を結び付けねばならない。

 この日の本が強くなるため、新しい国造りはここから始まるのだ。

 

                 ◆◆◆


「――西郷せごどん。ほんのこて長州の桂は、こん京に、やって来っんやろうか?」

 

 京・薩摩藩二本松藩邸にて、薩摩藩士の一人・黒田清隆くろだきよたかが眉を顰めつつ、口を開いた。

 刻限は夜の五つ半――、火鉢によって温められた座敷で、行灯の明かりが揺らぐ。

 この黒田清隆――、薩摩示現流の使い手で、生麦事件のときに随行の一人として居合わせたが、自らは刀を振るわず、抜刀しようとした他の薩摩藩士を止めたという。

 

「坂本さぁの報せでは、間違いなかぁと言っちょもうそ」

「西郷どんは、あん土佐ものを信用し過ぎでごわんど」

「黒田さぁ、わしも長州と手を組んとが、いっばんの解決じゃち思うちょい。そもそも、今回の再討伐は、無理があっとじゃ。聞けば幕軍の士気は、下がっちょっちゅうぞ」

 

 江戸を発った幕軍は、将軍・家茂公とともに、大阪から動けないらしい。

 しかし戦には、大量の軍資金が必要になる。藩の財政を逼迫しかねないこの再討伐に、諸藩の士気が下がるのは最もである。

「じゃっとん、幕府に知られれば、薩摩も幕府に睨まれもうそ。ここは久光公の判断ば、仰いだほうがよか」

 

 この頃の薩摩藩は薩英戦争により大きな被害を受けたものの、英国と手を結び、武器の輸入や琉球王国との間の密貿易によって潤沢な財政を得るようになっていた。

 しかしそれは幕府からすれば、脅威らしい。

 おそらく薩摩に長州再討伐に参加せよという幕命は、薩摩藩の力を削ぐ目的だろう。

 薩摩藩国父・島津久光公は公武合体を貫いている以上、幕命を拒否する行動は反対するかも知れぬ。

 

「いんや。久光公は危険な橋は渡りもはん。ここは、こん会見にかけようぞ」

 西郷はそう、黒田を納得させた。

 長州が幕軍に負ければ、幕府の標的は薩摩に向く――、西郷が長州と手を結ぶ決断に至ったのは、そんな恐れがあったからだった。

 

                ◆


 亥の刻――、大きなくしゃみが、伏見寺田屋の座敷に響き渡る。

「……ほんまに、大丈夫どすか? 龍馬はん」

 妻・お龍は、座敷に入ってくると首を傾げた。

「なんちゃあない。は、は、は――……」

 大丈夫だと言っているそばからくしゃみをする龍馬に、お龍は笑った。

 このとき龍馬は、長州と薩摩の会見に合わせ、京に入っていた。

 しかし褞袍どてらに包まり、赤ら顔の龍馬は、自分でも情けないと思う。

 大事の前に、風邪をこじらせたのである。

 お陰で会見の立ち会いは、中岡慎太郎となった。

「龍馬はんは一刻も早う、風邪を治しておくれやす。うちは看病できますさかい、ええのどすけど……」

 お龍は視線を落とし、頬を赤く染めている。

「お龍……、おまんはわしに治って欲しいが? 欲しくないが?」

「龍馬はんの、いけず!」

 腰を抓られ、龍馬は「ぎゃっ」と声を上げた。

「お龍――」

 龍馬は視線を手元に落とした。

 そこにはお龍から渡された椀がある。

 中には、炊事が苦手なお龍が、龍馬のためにと作った玉子粥があった。

「なんどす?」

 お龍がふくれっ面のまま、視線を寄越した。

「もうちくっと待っとぉせ。こん国が落ち着くまで、待っとぉせ。そうしたらおまんと、一緒にいられるがよ。そうじゃ、わしの船で異国を巡ろうかの?」

「ほんに?」

「ほんじゃき、もう少し待っとおせ。こん国の立て直しが終わっちょったらわしゃ、必ずおまんの元に帰ってくるきに」

「……約束どすえ?」

 抱き合おうとした瞬間、障子が勢いよく開いた。

 お龍は体を退き、龍馬は前屈みの姿勢で空振りした両手をばたつかせた。

 障子を開けたのは、中岡慎太郎であった。


「……邪魔だった――かのう?」

 お龍の言葉ではないが、龍馬は中岡も意地が悪いと思った。

「中岡、開けるときは声をかけちょけ」

「それよりも……」

 中岡はそう言って、膝をつき、手にしていた刀を傍らに置いた。

 お龍は食べ終わった粥の椀を膳に乗せ、軽く会釈して座敷を出ていく。

「ええ、嫁じゃろ?」

惚気のろけちょる場合じゃないがよ」

「桂さん、来たかえ?」

「ああ。河原町の旅籠にいちゅう。また西郷がすっぽかさなければええが」

「それはないじゃろ。薩摩も、追い込まれとるみたいじゃき」

 西郷いわく――、薩摩も幕府に睨まれているという。

 ゆえに、長州に負けてほしくはないようだ。

「――いよいよじゃな」

 中岡の言葉に、龍馬も続ける。

「ああ。いよいよじゃ」


 

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