第9話 茶葉の香りは危険な香り

「――すみもはんっ! 坂本さぁ」

 

 京・薩摩藩二本松藩邸にて、西郷吉之助は龍馬が口を開く前に頭を下げた。

 刻限はいぬの刻――、軒下の鉄風鈴が涼やかな音を奏でている。

 下関での桂小五郎と西郷吉之助の会見は、西郷の突然の欠席により失敗に終わった。

 西郷はこれをびているのだ。

 

「……もう、すんだことじゃき……」

「坂本さぁ、事態は深刻でごわす。京には家茂公がおっとぞ。将軍自ら出てきたちゅうこつは、これはこんた急がんにゃなりもはん」

 

 西郷いわく――、幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主・毛利敬親とその嫡子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活の三つを実現させるために、兵と砲を率いて上京させ、強引に諸藩の宮門警備を幕府軍に交替させようとしていたらしい。

 しかしこれは、西郷と大久保の朝廷工作が功を奏し、幕府の条件を拒否する勅書と伝奏が所司代に下され、逆に至急、将軍を入洛させるようにとの命が下されたという。

 問題はこの勅書を無視して、将軍家茂が紀州藩主・徳川茂承とくがわもちつぐ以下十六藩の兵約六万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させ、京に入ったことである。

 幕府はなんとしても、長州再討伐をするつもりらしい。

 西郷が下関での桂との会見を欠席したのは、緊迫した京の情勢ゆえだという。

 

「薩摩は、討伐に反対なんじゃな?」

「すでに藩論は決まってもす」

 西郷は京都情勢を藩首脳に報告した後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめていた。

「坂本さぁ、長州に渡す軍艦と武器ば、薩摩が買いもんそ」

 西郷の決断に、龍馬の心は震えた。

 長州を救う道が、開いたのである。

「本当かえ!? 西郷さん」

「薩摩隼人は、嘘はつきもはん」

 西郷吉之助――、体躯たいくの大きい男だが、その心根も大きかった。


             ◆◆◆


 長崎・南山手みなみやまて――。

 晴れ渡る空の下、そこからは長崎港が一望できる。

 停泊する各国の船、居並ぶ洋館、大浦天主堂の屋根まで確認できる。

 そんな南山手の地に、この男の邸宅はある。

 

 その日――、男はアフタヌーンティーを楽しんでいた。

 三段重ねのティースタンドには、下段にライ麦パンに胡瓜きゅうりや卵サラダ、ローストビーフを挟んだサンドイッチ、中段にチョコレートケーキやベリーケーキ、上段にクロテッドクリームとジャムを添えたスコーンが乗っている。紅茶の茶葉は男のお気に入りのインド産ダージリンである。

 ダージリンは季節によって香味がやや変わるが、概してさっぱりとして華やかな香りがあり、軽やかな渋みとコクが大きな魅力である。

 

 男の名は、トーマス・ブレーク・グラバー。

 彼が生まれた地は、イギリス、スコットランド北部の小さな漁村、フレーザーバラである。長崎が開港した安政六年、上海経由で長崎へ来航したのだった。

 同じスコットランド人であるケネス・R・マッケンジーが経営していた貿易商社で働くことになる。このときグラバーは、二十一歳の青年であった。

 彼の転機は文久元年、マッケンジーが日本を去り、その仕事を引き継ぐと同時に「グラバー商会」を旗揚げしたことから始まる。


 大きく切り取られた窓からは、燦々と陽が降り注ぎ、銀製のカトラリーを光らせた。

 グラバーがスコーンを半分に割り、ジャムを乗せていると秘書が来客を告げてきた。

  

「Mrs.けい、久しぶりですね。すみません、お茶を楽しんでおりました」

「気になさらないでくださいな。Mr・グラバー」

 グラバーを訪ねてきたのは、この長崎で茶貿易を行っている女商人・大浦慶おおうらけいであった。

 椅子に腰掛けるように勧めると、慶は軽くお辞儀をして腰掛けた。

 

「なかなか、繁盛しているそうね?」

 ティーカップを口に運ぶグラバーに、慶は話を切り出す。

「そんなではありませんよ。Mis・慶」

 

 カップから香る茶葉の香りを楽しみつつ、グラバーは彼女がなにをしにきたのか、彼は目を細めた。

 グラバー商会が扱うのは主に生糸や茶の輸出で、慶とはライバルと言えばライバルだが、これまで衝突したことはない。

「わたしの目は節穴ではないのよ。この国にはね、蛇の道は蛇という言葉があるの。この長崎で、大浦慶の知らないものはないわ」

 

 やはり彼女一代で、莫大な富を得ただけのことはある。

 この長崎で彼女は「長崎の女傑」と呼ばれているという。

 彼女が商う茶葉は、イギリスのみならず、西洋には大ウケだ。

 いずれ、グラバーが日課としているアフタヌーンティーにも、大浦慶の茶葉が乗ることだろう。

 

「ははは、Mis・慶には敵いませんな」

「商売敵にはならないから安心してくださいな。いくら儲かると言っても、お縄になるくらいならこつこつと稼ぐ道を選ぶわ。あなたが商う茶葉は、とても危険が香りがするもの」

 

 なるほど――と、グラバーは思った。

 大浦慶は気づいているのだ。

 彼女は茶葉と言っているが、それは茶葉などではなく、武器だと。

 グラバーは裏稼業を隠しているつもりはなかったが、彼にとって今が絶好の機会なのだ。

 幕府と長州の対立である。

 戦争となれば、莫大な利益を生むだろう。

 要するに大浦慶は、西洋人のグラバーがなにをするのも勝手だが、戦争に巻き込まれるのはごめんだと牽制に来たのだろう。

 

 そんなグラバーに、秘書が近づいてきて耳打ちをしてきた。

 どうやら、彼の得意先がやってきたようだ。

「――わかった」

 グラバーはそう答え、少し待ってもらうに秘書に伝えた。

「商談相手がきたようね? Mr・グラバー」

 大浦慶が、ふっと笑って立ち上がる。

 さすがのグラバーも、長崎の女傑と知られる大浦慶を前に、お気に入りの紅茶も喉を通らず、ようやく腰を上げた彼女に内心、やれやれと思った。


「――邪魔だったかね?」

 大浦慶と入れ替わるようにして、羽織袴の侍がグラバーの前に立った。

「いいえ。今日はどのような武器をご入り用でございますか? Mr・小松」

 グラバーの前にいたのは、薩摩藩家老・小松帯刀であった。


               ◆


 桂小五郎の怒りが解け、再び薩摩に協力を求めることを納得したのは、下関での一件から数日後のことであった。

 やはり西郷吉之助の『長州に渡す軍艦と武器を、薩摩が買う』と言った言葉が、桂の心を動かしたのだろう。

 河原町の料亭にて、龍馬は桂と会っていた。

 桂は長崎に、仲間二人を向かわせることにしたという。

 もちろんこのときも桂は、新堀松輔という但馬浪人に成りすましていた。

「――ところで、坂本どの」

 桂が杯から視線を上げる。

「?」

 桂いわく、身辺に気をつけろという。

 何でも奉行所のみならず、新選組まで龍馬のことを聞き回っているという。

「わしも、有名になったもんじゃのう……」

「笑っている場合ではないぞ。たとえ君が北辰一刀流の使い手であれ、大人数を相手に立ち回るには不利だ」

「わかっちゅうよ、桂さん。わしは、なんも悪いことはしちょらんきに、捕まるわけにはいかんちゃ。まだやることが、こじゃんとあるがよ」

 

 薩摩藩家老・小松帯刀は、武器を調達するならば、格好の商人がいるという。

 薩摩藩は鹿児島湾での英国との戦いにより攘夷を断念し、英国との取り引きを始めたという。

 このとき昵懇の仲となった武器商人が、長崎・南山手に住んでいるという。

 その名を、トーマス・ブレーク・グラバー。

 彼が経営するグラバー商会は、表向きは生糸や茶葉の取り引きだが、西洋式火器や軍艦も商う男だった。

 この国を強くするという龍馬の夢は、実現に向けて動き始めている。

 故に捕まるわけにも、死ぬわけにもいかないのである。


 桂と別れた龍馬は、河原町通を歩いていた。

 このまま伏見まで足を延ばし、妻・お龍の顔を見に行くのもいいかも知れない。

 刻限は夜の六つ半――、人を訪ねるのに遅くはない。

 

 ふと、龍馬は足を止めた。

 背後に数人の気配がある。

 二人、いや四人、その気配からは殺気も伝わってくる。

 なぜか今宵に限って月は雲間に隠れ、人を襲うには絶好の頃合いだろう。

すると男がいきなり、斬りかかってきた。


「……何者ぜよ!?」

 咄嗟に躱した龍馬に、男たちは再び襲ってきた。

 桂のいうとおり、数人を相手では体力が保たない。

 龍馬は走った。走って、町家の陰に飛び込んだ。

「何処へ行った!? 逃がすな!」

 男たちは、巻かれたことに憤り、その場から去っていく。

 

「やれやれ……、いったいなんなんじゃ……」

 ほっとしたのもつかの間――、龍馬に新たな刀が振り下ろされる。

 すかさず身を退いてかわすと、一つの人影が動いた。

「さすがですね。私の剣を交わしたのは、あなたが初めてですよ。土佐の坂本龍馬さん」

 月がようやく雲から姿を現し、その人影を露わにした。

「おまんは――……」


 袖口を白くだんだらに染めた浅葱色の羽織、額に鉢金はちがねをつけた鉢巻き、その身なりは龍馬がこの京で以前に出会った壬生浪士組と同じ姿だった。

 そしてその先頭にいたのが、いま龍馬の目の前で微笑んでいる青年だった。

「私の名は新選組副長助勤・一番隊組長、沖田総司――」

「わしは、新選組に斬られそうになることはしちょろんがよ」

「ええ。今のところは。ですがもし幕府に対してよからぬことを企むならば――、今度は間違いなく斬りますので」

 沖田はにこにこと笑っていたが、その目は笑っていなかった。

「捕まえずに斬るがか?」

「大人しく捕まってくれるなら、いいんですけどねぇ」

 沖田は刀を鞘に収めると、龍馬に視線を合わせてきた。

 おそらく、これは警告だ。

 新選組や奉行所がどこまでこちらの動きを掴んでいるか定かではないが、彼らを恐れていては夢は進まない。


 長崎の地を二人の長州藩士が踏んだのは、それから数日後の慶応元年七月二十一日のことであった。

 

 

 

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