第4話 勝海舟、憤慨す

 ――だから言わんこっちゃねぇ……!


 勝海舟は、怒っていた。

 以前から彼は気が短いと、周りから言われてきたが、今回は怒るのも馬鹿らしく思えて呆れていた。

 お気に入りの羅宇煙管ちらうきせるを落ち着かなく弄んでいれば、雁首がんくびから落ちた煙草の灰が煙草盆の灰落としをかすめ、自身の片手の甲に落ちた。

 熱さに顔をしかめつつ、舌打ちをする。

 

 このとき勝海舟は、軍艦奉行に復帰していた。

 老中・――板倉勝静いたくらかつきよによる再任だったが、問題は今回の長州藩への再討伐である。

 幕府の弱体化を露呈ろていしかねないと勝は幕閣に訴えたが、幕閣はこれを無視、再討伐実行となった。しかも、朝廷を巻き込んでの再討伐である。

 

 実際にどうなったかといえば、惨敗だったらしい。

 長州藩は最新鋭の武器と軍艦を用意して、待ち受けていたという。

 そもそも、足並みが揃わぬ中の進軍であった。

 出兵を拒む藩も多かったらしい。

 幕軍の誤算は、薩摩藩の出兵拒否もあったらしい。

 この薩摩藩を説得しろと、勝は江戸から大阪に呼ばれたのだが、説得はするも、かの藩は結局出兵はしなかったようだ。

 

 勝には、かの藩がなにを考えているのか定かではないが、戦ともなれば大量の資金と兵糧がいる。さらに、藩によっては戦国の世さながらの姿で、西洋式戦術を駆使する相手と戦っていたというのだから、もはやため息も出ない勝である。

 

「――安房守あわのかみどの」

勝の前で、板倉勝静が口を開く。

「つまり――、俺らに、幕軍あんたらの尻拭いをしろと?」

 勝の遠慮のない物言いに、板倉は渋面である。

 普通、こんな言い方をすれば切腹ものだが、勝の口調は今に始まったことではなく、幕閣は慣れているらしい。

 とはいえ、この遠慮のない物言いで昔から煙たがれてきた勝だが、こちらに問題が起きるたびに解雇し、逆に幕府に問題が起きれば頼ってくるという繰り返しに、さすがの勝もいい加減疲れてきた。

 隠居しようかと思っていたときに、軍艦奉行復職と大阪への呼び出しである。

 はたして今度はなにが起きたのやら――、板倉の前に座った勝は、板倉の話に「冗談じゃねぇ!」と激昂しかけた。

 なんと幕府は、今回の長州藩再討伐惨敗を受けて、勝に長州藩との停戦交渉をせよと言ってきたのだ。決定的なのは、将軍・徳川家茂が大阪城にて病死したことだろう。

 長州藩の予想を超える反撃と将軍逝去、これ以上勝ち目はないと踏んだのはいいが、まさか交渉役にさせられるとは思っていなかった勝である。


 そもそも、今回の再討伐は無謀だったのだ。

 この大阪では米英仏蘭の四カ国によって足止めを食らい、幕軍の士気はさらに下がったらしい。

 最大の誤算は、長州藩が軍艦を用い、西洋式戦術をとったことだという。

 

 こうなるのであればとっとと江戸に帰るべきだったぜ――と、勝は舌打ちしたい気分だったが、勝を大阪に呼んだのは板倉ではなく、徳川宗家を就いだ一橋慶喜こと、徳川慶喜だった。

 

 さすがに次期将軍に向かって、勝でも「あばよ」とはいえない。

 その慶喜――、家茂の後継として、老中の板倉勝静、小笠原長行は慶喜を次期将軍に推しているという。だが慶喜はこれを固辞し、徳川宗家は相続したものの、将軍職就任は拒み続けているらしい。

 幕府の地盤がしっかりしているならまだしも、土台を支えていたはずの諸藩は幕府に背を向け始め、幕閣は幕閣で諸問題に右往左往している。

 火中の栗を拾うようなことになりかねないと、慶喜は思っているのだろう。

 

 ――仕方ねぇなぁ……。


 幕臣という、宮仕えのさがである。

 勝は内心やれやれと思いつつ、広島・宮島大願寺で長州藩側と停戦交渉を行うべく、海路を進んだのであった。

 ところが、である。

 徳川慶喜がこのあとにしたことが、勝の堪忍袋の緒を切った。

 勝がそれを知ったのは、宮島交渉の翌日であった。

 なんと慶喜は勝が広島へ向かって間もなく、朝廷に対し休戦の詔勅を引き出していた。

 つまり、勝がわざわざ長州藩との交渉に出向かなくともよかったのである。

 勝は憤慨した。

 ならばもう、大阪にいる必要はない。

 

「え、江戸に帰られると!? 安房守どの」

 帰ると腰を上げた勝に、老中・板倉勝静は慌てた。

「俺らの用は、すんだんじゃねぇのか?」

 勝は板倉を睨んだ。

 板倉も気まずいとみえて、視線を合わせてこない。

「だ、だが、慶喜公のお許しを得ねば……」

「知ったことじゃねぇ」

 再び軍艦奉行を罷免されるかも知れないが、勝は現在の幕府に未練はなかった。


              ◆◆◆


 十月になった。

 幕府の長州藩への再討伐は、結局停戦ということで終わった。

 どちらが勝ったかといえば、長州藩だろう。

 高杉晋作の猛攻は凄まじく、小倉口を守っていた幕軍・小倉藩兵は最終的に総崩れとなったという。

 長崎に戻っていた龍馬は、長崎港を一望する高台で空を仰ぐ。

 風が吹いている。

 空は白く霞み、こま切れになった雲が遠くに浮かんでいるのが見える。

 たが龍馬の心は、晴れない。

 亀山社中は多額の借金を抱え、それが何一つ解決していないからだ。

 このままでは、倒産間違いなしである。

 長州藩の難は去ったが、亀山社中の難は去っていない。

 そんな龍馬に、陸奥宗光が珍しく辟易へきえきした顔でやってきた。

 

「坂本さん、そろそろ社中に戻して下さいよ」

 このとき陸奥は、長崎『大浦屋おおうらや』にその身を置いていた。

 主は大浦慶おおうらけいという女性だが、これがまた土佐弁でいうところの男勝りはちきんであった。

この国が開国する一年前の嘉永六年から日本茶貿易で財を成し、今や長崎屈指の商人らしい。

 問題はこの大浦屋に、亀山社中は借金があることだ。

 資金援助を頼みに行った時――、大浦慶は龍馬と一緒にいた陸奥に視線を移すと、彼を担保に資金を調達したのである。

 陸奥は陸奥で、最初は喜んでいたのだが。

「陸奥。おまん、大浦屋は極楽みたいな所じゃと、いっちょっておらなかったが?」

「慶どのは、見た目は弁天様なんですけどねぇ……」

 やはり陸奥も、気の強い女性にはさすがの口も回らないらしい。

「もうちくっと、辛抱しとぉせ」

 さて、社中の大難をどう乗り越えるか。

 そんな龍馬だが、この長崎で意外な旧友と再会した。

 それは、グラバー商会を訪ねた帰りである。

 龍馬は一人の男に呼び止められた。

 

「――おんしは……」

 振り向いた龍馬は瞠目する。

 その男は龍馬が剣術修行のために入った江戸・桶町千葉道場にて、ともに稽古をしていた同郷の溝淵広之丞みぞぶちひろのじょうだった。

「久しぶりじゃの」

 驚く龍馬に、溝淵は苦笑する。

「どういて、長崎におっちゅう?」

「龍馬、土佐はもう昔の土佐じゃないがよ」

 溝淵いわく土佐藩は、この長崎にて異国相手に貿易を始めるらしい。

 故郷の目が、外を向いたのは喜ばしいことだが、溝淵から出た名に、龍馬は渋面を作った。

 土佐藩参政・後藤象二郎ごとうしょうじろう――、彼がその責任者なのである。

 後藤は、土佐勤王党を弾圧した男であった。

「龍馬、おまんどういて、土佐を出たがじゃ」

 溝淵は、龍馬が脱藩した理由わけを聞いてきた。

「土佐におったら、なにもできんと思っちょったからじゃ。こん国の本当の姿は、土佐から離れて見んとわからん」

 

 当時の龍馬は、土佐勤王党に所属していた。

 しかしジョン万次郎や河田小龍かわだしょうりゅう、勝海舟や佐久間象山、桂小五郎に久坂玄瑞、高杉晋作と、彼らとの出逢いが龍馬の目をこの日の本へ、さらに海に向けた。

 西洋列強に押され、なにもいえぬ幕府の現状が見えた時、龍馬はこの国を強くするのだと一念発起、土佐を脱藩した。

 

「それで、見えちゅうが? こん国の本当の姿は」

「――はっきりとの。ほんぢゃき、わしは土佐を離れたがじゃ。国のことは幕府に任せておけばええと最初は思っちょったが、もはや幕府に諸藩を纏める力はのうなった」

 

 異国と対等の力をもつ国にするという龍馬の想いをよそに、幕府は現在も事なかれ主義である。そんな幕府に不信感をもつ藩も出始めたという現在、幕府の事なかれ主義はもう通じはしないだろう。

 現に長州藩は、倒幕の意思だ。

 呼応する藩が、いずれ出てくる可能性が非常に高い。

 ならば、倒される前に幕を引いたほうが、徳川のためである。

 

「――はっきりいいゆう……」

 溝淵は軽く嘆息して、苦笑した。

「現在のわしは脱藩浪人やき、藩に縛られることはないがよ。おかげで、自由が利くきにの」

「ほんぢゃけんど、土佐には兄上と姉上がおろう? 土佐に帰りたくはないがか?」

「それを言われると辛いのう……」

 龍馬は空を仰ぐ。

 龍馬はこうして土佐からやって来る友からでしか、土佐を知ることが出来ない。

 土佐の地を二度と踏めぬ覚悟で脱藩したというに、故郷が懐かしく思う龍馬であった。

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