ポワソン:どぜうと食べ物の描写
本というのは様々な知識を与え、想像力を掻き立ててくれるものだ。
説教か自己啓発本のような文句であるが、別にその知識や掻き立てられた想像力は必ずしも有益なものである必要もなければ高尚なものである必要もない。
実際、私が本を読んで何か行動に移す時、それは高尚なことではなくて食欲に後押しされてのことが多い。見栄をはってしまった。行動の原因はすべて食欲である。
江戸っ子などと見栄をはることが多いが、二十歳すぎるまで泥鰌を食べたことがなかった。
それがあるとき『家霊』という作品を読んで無性に食べたくなった。この作品を読んだのは近現代文学の講義で紹介されたのがきっかけであったが、文学研究的な側面については一切おぼえていない。忘れたというより、端から取り込んでいないに違いない。私の辞書に食欲という言葉はあっても知識欲という言葉は存在しない。
ただただ永年夜食として食べ慣れたどぜう汁と飯一椀、わしはこれを摂らんと冬
のひと夜を凌ぎ兼ねます。朝までに身体が凍え痺れる。わしら彫金師は、一たが
ね一期です。明日のことは考えんです。あなたが、おかみさんの娘ですなら、今
夜も、あの細い小魚を五六ぴき恵んで頂きたい。死ぬにしてもこんな霜枯れた夜
は嫌です。今夜、一夜は、あの小魚のいのちをぽちりぽちりわしの骨の髄に噛み
込んで生き伸びたい――
くめ子は柄鍋に出汁と味噌汁とを注いで、ささがし牛蒡を抓入れる。瓦斯こんろ
で掻き立てた。くめ子は小魚が白い腹を浮かして熱く出来上った汁を朱塗の大椀
に盛った。山椒一つまみ蓋の把手に乗せて、飯櫃と一緒に窓から差し出した。
(岡本かの子『家霊』 青空文庫より)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000076/files/984_19594.html
これを読んだ後に浅草でかきこんだ赤だしの泥鰌汁のなんと美味かったことか。
そういえばこのエッセイの名前の由来となっている乗り鉄先生の書かれていた本を読んだ後、しばらくは狂ったように油揚げに醤油をかけたものを焼いて食べていた。
不思議なことに本で出会った料理はとりわけ美味しく感じる。
本は一種の調味料なのかもしれない。
なお、この回は倉沢トモエ氏『倉沢の読書帳。』
https://kakuyomu.jp/works/16816700426989514413
の次の回
書籍の中の異国の食べ物の話についてもそれはそれで色々と思い出があるのだが、
「17 知らない国の食べ物。」
https://kakuyomu.jp/works/16816700426989514413/episodes/16817330656117760286
「18 知らない国の食べ物。おまけ。」
https://kakuyomu.jp/works/16816700426989514413/episodes/16817330656178436485
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます