2 砂漠の街

1か月後――。


 アメリカ合衆国

 ネバダ州 ラスベガス




 オアシスの名を持つ窪地の大都市。

 砂漠広がる合衆国南部に突如と現れるネオンの塊は、人々の欲望と、この国最後のゴールドラッシュを背負って輝いていた。

 夜空に幾本のタワーホテルがそびえ、街角に並ぶパームツリーの間を、高級車が駆け抜けていく。

 エッフェル、ピラミッド、ベネチアの鐘楼…派手なオブジェが、自分の居場所を見失わせる。

 ジャックポット、スロット、カジノ…物言わぬ女衒が、まばゆい光を放ちながら、行き交う人々の野生を駆り立てる。


 このラスベガスという街は、カジノのメッカとして今も有名であるが、この姿というのは、かつてモルモン教徒が、彼の地を見つけた時を始点とする歴史からすれば浅く、また、現代から遡れば、50年程しか経過していない新しい顔と言えるのだ。



 

 1931年、ネバダ州でカジノが合法化されたところから話は始まる。

 現在はユタ州とハワイ州を除き、アメリカ国内でのカジノ運営は合法となっているのだが、この当時はラスベガスのあるネバダ州のみでしか、許可されていなかった。

 それまで御法度とされたきたギャンブルが、初めて公共の利益をもたらす主要産業として成立し、名もなき田舎町が急速に発展。


 賭博が1つの経済を、怒涛の勢いで動かすことを証明した、歴史的瞬間である。


 それに拍車をかけたのは、ラスベガスから約50キロ離れた場所に建設された、合衆国最大の建造物、フーバーダム。

 砂漠の水瓶のみならず、西海岸諸都市の電力を一挙に賄う水力発電所としての役割を担うために生まれた、超巨大インフラである。


 この一大プロジェクトに、国内から多くの人が職を求めて集まった。

 過酷な肉体労働の彼らを癒してくれた娯楽こそ、カジノ。


 その潤沢した利権を求め、今度は国内からマフィアが集まり、店の運営やライバル買収、リゾートホテル建設など、今のラスベガスの基盤となる部分を、時に血と金を天秤にかけながら築き上げていった。

 それこそ、フーバーダム並みの巨大さと月日をかけて。

 幸か不幸か、それまで暗く汚い、労働者の遊びというイメージが強かったカジノを、リッチでゴージャスな金持ちの道楽へと変貌させていったのも、彼らマフィアなのだ。


 ■



 21世紀にはいると、表面上はマフィアの影は街から消え、米国内の企業のみならず、外資が経営するカジノも現れるようになった。

 ゾンビアクションシリーズをはじめ、数多くのヒット作品を手掛けた日本の大手ゲーム会社も、ここにカジノ、フィットネスクラブ、技術研究所、依存症サナトリウムを構えている。

 また、ホテルの中にはカジノを置かず、シアターやレストランといった賭け事以外のビジネスを前面に押し出す所も増えている。

 マフィアやイカサマ師による悪のイメージ、そしてギャンブル依存症という心理学的な負の側面がクローズアップされ始めたのが大きな理由だ。


 ここも、カジノを手放した1つ。

 ラスベガスの夜景に混じる高層ホテル、フェニックス・インペリアル。

 約2850の客室を抱える、ガラスの高層タワーは、4つのサーチライトで、シンボルカラーに染め上げられている。


 不死鳥の真紅に。



 24階に入るフレンチ・レストランは、仄かなキャンドルと砂漠の展望の中で振舞われるコースディナーが人気の店だ。

 今日も、店内は客で満席。予約でもしなければ、スムーズにオードブルからデザートまで、とはいかない。 


 「失礼します」


 窓際の席。

 ソムリエがボトルを手に、男女の座るテーブルへとやってきた。

 小さなグラスに入った赤いキャンドルの光が揺らぐ度に、銀食器が艶やかに輝く。

 白いクロスの上に、エスプレッソコーヒーと、一口サイズのケーキが並ぶ。

 

 「食後酒をお持ちしました」


 小さなショットグラスに注がれるのは、この雰囲気に添える甘いお酒。


 「ブルゴーニュの、ラタフィア・ド・シャンパーニュをご用意しました。

  度数は18パーセントと強めですが、ブドウ本来のトロっとした甘く芳醇な味わいが特徴的な一品です。

  そのままでも美味しく味わえますが、一口含んでいただき、エスプレッソをお飲みいただくと、アイリッシュコーヒーのような口当たりをお楽しみいただけます」

 「ありがとう」

 

 男の言葉に、ソムリエは一礼し去っていった。

 テーブルには再び、男女の時間。

 白い背広を着た、ダンディな中年男性は、ゆっくりとショットグラスを眼前の女性に捧げる。


 「さあ。もう一回、乾杯しよう。君の美貌と幸運に。ミス――」


 名前を戸惑う彼に、女性もまたグラスを持ち上げて名乗る。

 あの、真紅の瞳をラタフィアの中に沈めて。


 「エリスよ。エリス・コルネッタ」

 「そうだったね。では、乾杯を。ミス・コルネッタ」

 「フフッ…」


 微笑を浮かべる赤いフリルドレスの女性に、見覚えがある。

 そう。妖しげなマウザーで、シントラの幽霊を焼き尽くした、あの“彼女”だ。



 エリス・コルネッタ。23歳。

 イタリア・シエナ出身。


 ノクターン探偵事務所のリーダーである。



 「私も、あなたとの出会いに、グラスを傾けようかしら?

  ミスター・ゲイリー・アープ」

 「こんな目見良い淑女に、私の名を覚えていただくなんて、光栄です」

 「無論ですわ。ベガスの新しいホテル王にして、欧米で知らぬ者はいない、若き有名実業家。

  このレストランだって、あなたの名前ですぐ、予約もなしに入ることができたんですもの。流石ですね」

 「買いかぶりすぎさ」


 男は口をにやけさせ笑うと、互いにグラスを、サイレントに重ね合わせ口へ。

 搾りたての濃厚なジュースにも似た、奥深い甘美な舌触り。

 更にエスプレッソをチェイスさせると、不思議にも甘みを残したまま、ほろ苦いコクが包み込む。

 ウィスキーをベースとするアイリッシュコーヒーに似ている感覚だ。


 余韻を楽しみつつ、ゲイリーはエリスに声をかける。

 

 「ベガスには観光で?」

 「ええ。2日間ほど滞在して、その後は、サンディエゴ動物園にでも」

 「ならば、存分にベガスの輝かしい夜を満喫するといい。

  マカオやシドニーに、その地位を取られたという奴もいるが、この奇跡の街こそ、地上最後のゴールドラッシュにふさわしい場所さ。

  あんな場所は、後出しジャンケンの眉唾モノさ。

  スロット、ルーレットにブラックジャック。どれも、バーチャルゲームでは味わえないスリルと熱気、そして高すぎない格式と伝統があるからね」

 「フフッ…」


 自慢げなゲイリーに、エリスは微笑むとマカロンを一口。


 「そういえば、ミス・コルネッタのお仕事は?」

 「パリで、しがないデザイナーを……」

 

 はにかみながら口を開くと、つづけた。


 「大口の顧客からのオーダーが終わって、ようやく休みが取れたものですから、西海岸をぐるっと回っていますわ。

  折角の羽休みですもの。たっぷりと満喫するつもりです」

 「正しい選択さ。なんなら、明日も私のカジノに来るといい。その幸運に、たっぷりとサービスをさせていただくよ」

 「あら。チップをはずませるだけの幸運は、運とは呼べなくてよ?」

 「違いない」


 クスクスと、上品とも下品とも言えない模範解答の笑いを浮かべる2人を切り裂くように、電子音が鳴り響いた。


 「失礼」


 どうもゲイリーの電話らしい。

 断りを入れて取り出した、彼のiPhone8は、いかしたサウンドを奏でながら震えている。

 画面を見ると、もう、いかにもという大げさな溜息をついて、首を振った。

 

 「すまない。仕事場からだ。なにか、トラブルでもあったんだろう」

 「大丈夫ですわ。お構いなく」

 「すぐに戻ってくるから、待ってておくれよ」


 はにかむエリスに、何度も指をさしながら遠ざかっていくゲイリー。

 その姿が消えると、今度はエリスが正真正銘の溜息をついて、表情から「喜」を取り除いた。

 今までのそれが、苦痛だったと言わんばかりに。



 「随分、頑張ったわね」


 

 唐突に向けられた、女性の声。

 エリスの背中。

 だが、彼女は振り返らない。

 その声が、誰の者か知っていたから。


 「そういう仕事よ。ほっといて」


 さっきとは打って変わって、トーンを低く、尖った言の葉を口からこぼす。

 演技を捨てた…そう、これがエリス・コルネッタ。


 「で? 貴女は、悠々とバカンスにでもしゃれこんでるのかしら?


  法王庁極秘諜報作戦機関パチュリー 第十八部隊、第三司教聖士

  アンナ・ニーデンベルグ


  いいえ…コードネーム “モルガナイト”」


 呼ばれた背の彼女は、豊かな赤髪のポニーテールを揺らして、微笑し


 こう、返した。



 「フフン。

  バチカンを辞めた人間が、その名で私を呼ぶなんて……随分な挨拶ね。

  元第一司教聖士、エリス・コルネッタ


  いいえ…コードネーム “ブラッドベリル”」



 

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