56 エリス絶体絶命!
「92年のあの日、生きたいと願いながら、ケサランパサランの入った小瓶を片手に、黒煙くすぶるロスを歩いていた。
町の至る所で、略奪が行われていた。
巣を追われたアリのように、商品をこさえて店から出てくる人々。
泣き叫ぶ店主を蹴り飛ばし、人様の洋服を持ち逃げする男。
お産に喘ぐ牛のように、トラックが白煙を上げて、何度も何度も壁にぶつかる様など、滑稽で笑いが出てしまったよ」
動かない密室。
エリスに銃を突き付けられた状況でも、ゲイリーの口は止まらない。
まるで、審判前の懺悔とでも言わんばかりに。
「その時に思ったのさ。
命が何者より貴重ということは、裏を返せば、それは財産。
ならば、眼前の人々のように、誰かの
「そのためにお前は、ケサランパサランをばら撒いたのか!
自分が、誰よりも長く生きるために!」
エリスの詰問にも、ゲイリーは淡々と答える。
「覚えているかね?初めての夜に、君と乾杯を交わした、あのワインを」
「ラタフィア・ド・シャンパーニュ」
「その通り。
ラタフィアは元々、ワイン農家が自分たちだけで楽しむために作った、特別なワイン。故に現在でも希少価値の高い種類なのだよ」
「意味が分からない…とどのつまりは何だ」
銃を構えたエリスの眼光に揺るぎはなく、彼はため息をつきながら、手振りを交え始めた。
「私にとってケサランパサランとは、馨しいラタフィアと同じなのだよ。
人間に一つまみの幸運を握らせ、それを転がして大きくしてもらい、そいつを俺たちが収穫し、命という甘い味と香りを楽しむ。
簡単な話さ」
「山盛りになった
全く、平べったい理由だこと…そんなことのために、関係のない人間を殺すだなんて」
「人間なんぞ、誰しも自分が可愛いもんだろう。
それとも、君はゴミ処理屋さんが長すぎたせいで、生きたいなんて欲望は、これっぽっちも持ち合わせていないタイプの人間かね?」
エリスは意味深に、口に笑みを浮かべた。
「もう少し長く、バチカンにいたら、そうなってたでしょうね。
私も命ある限り生きていたいわ。当たり前だけど。
痛いのも死ぬのも御免。神のためなんて、更にお断り申し上げるわ」
「だったら、なぜだ」
「覚えているかしら? 乾杯の後、私が言ったセリフを」
「ん?」
エリスは、ワルサーPPKのセーフティーを解きながら言った。
「チップをはずませるだけの幸運は、運とは呼べない。
そう、これが貴方に共感を持たない答えよ」
凛とした姿に、鼻でフンと一蹴するゲイリー。
「で、私の命も頂くつもり?」
「そうしたいところだが――」
「毒薬を料理に盛った…そう言いたいのかしら?
お生憎様。昨日のレストランで、貴方がカプセルを貰っているのを、偶然にも見たのよ」
正確には、アンナが見たのだが。
「さあ、案内してもらおうかしら。ケサランパサランの生産拠点に」
しかし、ゲイリーの反応はエリスの予想とは裏腹に、高笑い。
「何がおかしい?」
「君のシナリオだと、私は恐らくこう言うはずだったろう。
何故、毒が利かないんだ、って。
で、その続きは、こうだろう?
自分に毒を盛ってくるだろうから、解毒剤を用意して服用していた。だから大丈夫……と」
「だったら?」
その時だ。
ゲイリーが、右腕にした時計をのぞき込む。
趣味も悪い、派手な金色のロレックス。
「そろそろ、最後のカプセルが溶ける頃だろう。
確かに、ある薬物を君に飲ませた。コロニープラネットで手渡した、チューイングミ入りの砂糖水に混ぜてね」
刹那!
「うっ……!」
突然に心臓が苦しくなる。息ができない。
エリスは銃を床に落とし、首を抑えながら倒れた。
しゃくりあげるような呼吸を繰り返しながら。
「いったい……なに…」
「一つ残念なのは、用心が早すぎたことさ。
そうさ、最初は毒薬を用意していたよ。
でも、君が仲間から解毒剤を貰ったことを知ってすり替えたのさ。筋弛緩成分の入った新薬にね。
ケサランパサランの研究中に見つかった成分だ。解毒剤なんてものは、この世に存在しない」
ゲイリーは、足元の銃を踏みつけて、苦しむエリスを見下ろした。
「全部お見通しなんだよ」
全身を支配する苦しみを、どうにか押し殺しながら彼女は抵抗する。
「じゃあ…カクテルも…」
「ああ。馬鹿な女だ。
エクソシストを頼んだ段階で、いや、その全てを懺悔した段階で、何もかもを察していれば、苦しまずに済んだんだ。
まあ、どのみち、君を殺すつもりだったけどね」
自分を見下ろすゲイリーを、鋭い眼光で睨みつけたエリス。
男は、死人に口なし、としゃべり続けた。
「そ…れは…」
ゲイリーが背広の右ポケットから取り出した小瓶。
彼女には見覚えのある、あの小瓶だ。
一匹の、本当にごく小さなケサランパサランが、ふわりと浮いていた。
「気づかなかったかい? そりゃそうだろう。
この右ポケットには、妖術消しの護符が入っていたんだからね。
これも師匠である、ジェイク・三沢から学んだのさ」
意気揚々と、小瓶を手の平で転がし、宙に投げ、再度ポケットに。
「この後、ボン・ヴォリーニにケサランパサランを手渡す。彼だけじゃなく、マフィアの構成員130人分の綿毛をね。
私はこれまで、いろんな人間にケサランパサランを渡してきた。しかし、それは質のいい幸運と命を吸い取るための実験だ。
そして、今回も」
ゲイリーの言葉を聞きながら、彼女は落とした拳銃へと手を伸ばす。
呼吸すらままならず、垂らした涎でワンピースが汚れても。
「私の育てたケサランパサランには、帰巣本能がある。というより、20年以上かけて、そうなるように育て上げた。
幸運を使用し、ある一定の状態になると、ケサランパサランは突然に持ち主に牙をむく。そして、持ち主の命を運もろども吸い取って、このラスベガスへと帰ってくるのさ。
問題は、持ち主の質だ。それが付加価値を高くする。
良質な運と命が私を長生きさせる」
「だから……容姿が変わらないのか…。20年以上ずっと……」
「その通りだ。
弁護士、裁判官、会計士、経営者。いろんな人物にばら撒いたが、その質も量もバラバラで、満足いくものじゃなかった。
唯一、上手くいった質の命があるとすれば、4REAЯの命ぐらいだろう」
彼女は声にしなかったが、マフィアをカモに選んだ理由が分かった。
4REAЯもまた、マフィアの抗争事件に巻き込まれた人間だったからだ。
「あの日、彼は新たなケサランパサランを要求した直後、この街で死んだ。
乗っていた
だが、私のもとに舞い戻ったケサランパサランの輝きは、ダイヤにも勝るもの……その証拠に、直後の健康診断では、内臓の年齢が18歳も若返ったというデータが出た」
「だから…マフィアに……」
「そうだ。今度はマフィアのボス。外野席にいた4REAЯより、良質なケサランパサランが帰ってくるに違いない」
ゆっくり、立膝で立ち上がるエリス。
「うっ!」
その足に、痙攣が始まっていた。
「ケサランパサランを手に入れ次第、ボン・ヴォリーニは西海岸で大規模な抗争を開始する。市民も合わせれば、相当数の死者が出るだろう。
行きがけの駄賃で飲み込む命も運も相当なものだ。
私はホテルの名の如く、不死鳥になるのだ。誰にも止められない不死鳥に」
彼女は、苦しむ心臓を抑えながら、片手で銃を構える。
「いいえ、いるわ……そんな不死鳥……私が…撃つ!」
だが――
「あぐっ!」
躊躇のないつま先蹴り。
うずくまるエリスを踏みつけながら、吐き捨てる。
「その体で、何ができる。
もうじき筋肉の弛緩が、最高潮に達する。お前はただ、呼吸ができなくなって、死ぬだけだ」
エリスに反撃の機会は少ない。というより、もう無いに等しい。
心拍数がどんどん上がっていく。
息をするのが、とてもしんどい。
口から垂れがなされる涎が、止まらない。
「そいつは、薬物刑にも使われるパンクロニウムの、3倍の威力がある。
致死量7ミリグラム。カプセルが溶けだしたら、5分後には天使が迎えに来る」
ゲイリーは、苦しむエリスをまたいで、モノレールのドア横にあるボタンを押した。
非常用のドアコックで、扉上部のランプが光りながら、自動でドアが開いた。
「悪いが、いろんな意味で汚い美女に興味はない。
ネクロフィリアじゃないから、抵抗しない死体の服をはがして、ナニする趣味すら持ち合わせていない。
つまり、今のお前は私にとって、用無しなんだ。
魂だの命だの、そんなものはどうでもいい」
そう言うと、ゲイリーは雑巾でも扱うかのように、ワンピースの襟首をつかんで、エリスをドアの方へと持っていく。
「ヒュー…ヒュー……ヒュー…」
喘息にも似た息継ぎを繰り返し、ぐったりとなすがまま。
彼女はもう、車両と外との境界にいた。
吹き抜ける風に、髪がなびく。
眼下に噴水。輝く光源がぼやける。
死にたくない。
足にしがみついて、抵抗するエリス。
だが、ゲイリーは自分のズボンに付いた涎を、ハンカチで拭きながら
「会合前なんだ。服を汚すのは止めてくれ」
軽く足で薙ぎ払うと、仰向けになったエリス、視点の定まらないエリスの表情を、優しい笑みで見下ろしながら、その胸に片足をのせた。
「アディオス」
足を、ただ動かしただけ。
エリスの華奢な体が、ドアから真っ逆さまに落ちていく。
音もなく。ただ真っ逆さまに。
小さな水しぶきも、視界からの情報だけ。
噴水の音にかき消されて。
見下ろしたゲイリー。
水中で七色に輝くライトが照らしたのは。
エリス――。
豊かな髪を湿らせ、ただ水面を漂うエリス――。
手足が動くこともなく、ただうつぶせに浮かんでいるだけ――。
無常に扉を閉めると、ゲイリーは携帯電話を取りだしながら、座席に座るのだった。
「ジェンキンス。私だ。
たった今、エリス・コルネッタを始末した。ああ、死んだよ。完全にな。
ボン・ヴォリーニ氏には、5分ほど遅れると伝えてくれ。大事なカモだ。丁重におもてなしするんだぞ。
……エリス・コルネッタの死体? ……放っておけ。筋弛緩剤を入れた上に、プールでおぼれてる。警察も溺死か窒息死と判断してくれるはずだ。
清掃御者に見つかっても問題ない……すぐにトラムを動かせ。今すぐに」
電話を切ると、振動と共にモノレールが再度、動き始めた。
レールの下に少女を置いたまま、オールドロマン・ホテルへ向かって。
車内。
ゲイリーは足元に落ちていた拳銃を拾った。
エリスが構えていた、ワルサーPPK/S。
「エリス・コルネッタ…今思えば、いい女だったなぁ。
ま、いいさ。後で仲間全員、同じ場所に送ってやる」
その銃身に、軽いキスをしながら。
「これでも紳士だ。寂しい思いはさせないよ、エリス・コルネッタ」
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