2日目・朝~襲撃
25 バスルームの悪夢
少女は夢を見た。
暗い匣のような空間で、地の底から唸り上げるような声が幾重にも響く。
その聴覚主観的感覚は、浴室で鼻歌を歌っているそれに酷似していた。
だが、これほどまでに不気味で抑揚のない鼻歌など聞いたことはない。
「我、主の限りなくきらい給う罪をもって、限りなく愛すべき御父に背きしを 深く悔み奉る――」
直後に体を包むのは業火。
熱い! 痛い! 苦しい!
声を切り裂き、骨を焼き、自我が失われる程悶えても、まだまだ収まらない。
「主よ。この少女の贖えぬ罪を、どうかお赦し下さい――」
自分が、何の罪を犯したのか。
この声は誰なのか。
「父と子と聖霊との
洗礼?
一体何? 私はもう、それを済ませているハズ…。
辛うじて残った思考も、最後の一撃で空へと帰した。
溶けるほどに燃え滾る体の中から蟻地獄が姿を現し、表皮に取りついた熱く冷たいものを、自分を取り成す全てのものを巻き込みながら食い尽くしていく。
心臓が、手が、足が、脳が、身体の中に吸い込まれていく。
熱いものは取りついたまま、一緒に中に。
最早、人の形を成していない自分が最後に見たのは、冠を頭に纏った裸の男と融合した蟻地獄の眼、そして腹部を切り裂いて現れた、鋭い顎と触覚――!!
「Amen《エイメン》」
■
「いやああああああっ!」
夢から覚めた時、彼女の身体は汗で覆われていた。
普段から下着とワイシャツというラフな格好で眠るのだが、そのシャツが透けてしまうほどに、大量の汗をかいていた。
荒く過呼吸に近い息も、収まる気配がない。
夏でもないのに――まるで、炎の傍にでもいたかのよう。
醒めたそれが追いかけてくるような感覚。
それに彼女は、歯をぎゅっと食いしばり、お腹を抱え込んでうなだれた。
「また…あの夢…」
か弱く呟く声に、自然と馬鹿馬鹿しい笑みがこぼれた。
「栗拾いの宴…か……フッ、無様ね」
ホテルのシングルルーム。
カーテン越しの空から朝陽が差し昇る。
枕元の無機質なデジタル時計は、六時半過ぎを示していた。
「もう、そんな時間なのね」
恨めしそうな真紅の眼を伏せ、その華奢な体を覆うシーツを払って両足をベッドから下ろした。
ざらりと足裏を伝う、カーペットの感触が、どこか気持ち悪い。
部屋を見回して、自分がいるところを確かめた。
そう、今いるのは、リスボンではなくラスベガス。
拠点としているオルコットホテルの33階、3314号室。
ストリップからやや離れた場所にある、リーズナブルなタワーホテル。
今、エリスが頭を回転させて、理解できるのは、そのあたり…か。
「エリス…エリス、大丈夫?」
ドアをノックし、別の女性の声が聞こえてきた。
接続する隣室の扉が開かれる。
恐る恐る顔をのぞかせたのは、あやめ。
「ええ。大丈夫よ。アヤ…大丈夫」
「また…いつもの?」
その言葉には触れず、エリスは頭を抱えながら問うた。
「アヤ。シャワー、誰か使ってる?」
「さっきまで、私が使ってたけど…まだあったかいから、使うなら早い方がいいよ。
あ、それから、ローブとタオルは、新しいの洗面台にかけてあるから、それ使って」
「ありがとう」
汗に身を包んだ彼女は、気丈な声で応えたが、直後に大きなため息を吐き捨て立ち上がった。
裸足でドアに向かって。
向こう側はベッドが2つの、ファミリールーム。
あやめは既に着替えているが、リオはまだ、ベッドの中で眠っている。
彼女からの、モーニングコーヒーの申し出をやんわりと断ると、エリスはバスルームに入った。
開放的なユニットバス。
足元は大理石で覆われ、深い浴槽とシャワーが、スモークガラスの向こう側にある。
エリスは洗面台に汗だくのワイシャツと下着を脱ぎ、その汗にまみれた肌を隠すことなく、ガラスに囲まれたプライベートエリアへと踏み入れた。
勢いよく流れ出るシャワーを頭から浴び、その汗と嫌な夢を流しながら、自分の心を落ち着かせた。
水分を帯びた髪の重さか、自然と頭がうなだれる。
しばらくは微動だにせず、水流のなすがままだったエリスの両手が動いた。
哀しげな眼差しで、首のペンダントを外すと、それを手の平へと置いて、まじまじと見下ろした。
水滴を帯びても、みずみずしさを保つ、ガーネットの十字架。
彼女が、牡牛時代から、いつも身に着けている刻印
その赤さは、血の赤にも似ていた。
「赤い十字架…か」
目をつぶり、それをぎゅっと握りしめた――その時!
「ハッ!」
一気に目を見開き、そして感じた!
何かが、自分の耳を、髪をかすめていくのを!
そう…言うなれば気配。人ならざる、こちら側の気配!
エリスはすぐに、シャワーのノズルを絞り、お湯を止める。
そして、湯気がまだ、ほうほうとたちこめる、ごくわずかな空間に目を凝らした。
まだいる…パチュリーで培った、経験則の勘がささやく。
「一体…なにが……アヤ!」
■
その叫び声に砂糖とミルクを思いっ切り混ぜたコーヒーを口にしていたあやめは、耳をピクリとさせて、バスルームの方を見た。
リオも、ゆっくりと起き上がる。
「ん…どうしたんだ?」
「エリスちゃんの声…何か叫んでいたんだけど」
「エリス?」
掛布団をはねのけて、起き上がったリオは、下着姿のまま冗談をめかす。
「寝起き一番、トイレでもつまった、ってか?」
しかし、それも次のあやめの一言で、打ち消された。
悪い意味で。
「…ジョークを飛ばせるほど、いい状況じゃないみたいよ」
「なっ!?」
「感じない?
ドアの隙間から、刺すように、そしてこぼれ出る妖気…どんどん大きくなってる…」
右手を抱えるようにして、眼光を鋭くしていくあやめ。
その言葉にリオも、枕元に仕込ませた愛銃、ジェリコ 941を手に、すぐ先のバスルームへと、視線を送った。
「妖怪か」
「多分。事務所でガラス瓶を手にした時と、同じものを感じるわ。
でも…ケサランパサランにしては大きすぎる」
だが、率直な疑問をリオはあやめに投げかけた。
「というか、起きて真っ先に、この部屋のシャワー使ったのアヤじゃん。なんで気づかなかったんだ?」
「さっきまでシャワーを浴びてた時は、なにも感じなかったわ。それらしき異常もなかった」
では―― 一体……この気配は?
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