祖父の人形 後編
少しだけ開いたその隙間からは、人形の目が見えた。
——あぁ、やっぱり人形が布を退かせていたんだ……。
誰かが布の端を持ち上げているかのように、布はゆっくりとめくれ上がって行き、床に落ちた。部屋は窓も扉も閉まっていて、風は吹いていないし、もちろん私も触っていないのに、布がめくれるのはおかしい。
布が床に落ちた瞬間、自分にも聞こえるくらいの大きな音で、心臓がドクンと音を立てた。
何度も災いを受けたことがあるので、今から良くないことが起こると、すぐに理解できた。それが止められないということも分かっている。
その場から離れようとしても、上から押さえつけられているように感じて、動けなかった。次第に呼吸は苦しくなり、電気が走ったように身体中がビリビリと痛む。
その時。人形の中から、黒く細長い影が出てくるのが視えた。
大人と同じくらいの大きさの、その影は、すぅっと私の方へ近付いてくる。そして目の前まで来て、視えなくなった——。
——なんで消えたんだろう。もしかして、入られた……?
嫌な予感というものはよく当たるもので、しばらくの間は良くないことが続いた。
学校で友達と遊んでいる時に、サッカーボールが右目に当たって腫れ上がり、3日間も目が開けられなかった。ただ、その場にいた子は誰も、サッカーボールを蹴っていないという。
学校の大階段では、急に左足が動かなくなり、そのまま下まで転がり落ちてしまった。足に問題があったというよりは、何かに足を押さえつけられて、動かせなくなってしまったのだ。
通学時には何かに引っ張られて、車にぶつかったが、ランドセルが上手くクッションになってくれて、くるりと回って転んだだけで済んだ。私は1人で歩いていたのに、誰が私を引っ張ったのだろうか。
そして、雪がちらついていた夜のこと。
父と一緒に出かけた帰り道。車で、大きな川沿いの道を走っていると、急に父が「うわっ!」と大きな声を上げた。
それと同時に、車が左右に大きく揺れ出して、シートベルトが私の身体を締め付けた。それでも大きく揺さぶられて、何度もお尻が浮く。まるで絶叫系のアトラクションにでも乗っているようだ。
車のスピードはどんどん上がって行き、もう、どの方向を向いているのかも分からない。
ただ、父の叫び声だけが響いた。
恐怖に耐えきれなくなった私が目を
——あ、落ちる。
そう思った私は、身構えた。
真冬の川に車ごと落ちたら、どうなってしまうのだろう。色んなことが頭の中をぐるぐるとまわっていて、車のライトで照らし出された周りの景色も、雪も、全てが止まってしまったように見えた。
ガードレールが、どんどん近付いてくる。
すると、また車の側面に何かが、ドン! と当たり、向きを変えた車はガードレールに何度もぶつかりながら止まった。
「大丈夫か? 痛いところはないか?」
父が慌てた様子で振り向いて、声をかけてきたが、身体が震えていて、声が出ない。とりあえず大丈夫だと伝えるために、私は小さく
その後——。ボロボロになった車でなんとか家に帰り、気持ちが落ち着いた時のことだ。
——あれ? 憑いていた奴が、いなくなった気がする。
ずっと重かった身体が、軽くなっていた。あんな目に遭った後にいなくなったという事は、やはりフランス人形の中から出てきた『何か』の仕業なのだろう。
やっと離れてくれたのなら、もう二度と取り憑かれないようにしたい。
どうしたらいいのだろうかと考えていると、前に、別の人形の中に入っていたものが、家を呪っているご先祖様に睨まれて、大人しくなったことを思い出した。
——あの場所に置いておけば、出てこないかも知れない。
私は祖父に頼んで、フランス人形を、仏壇の間にある棚に移してもらった。
仏壇の間には、とても強い力を持っている、災いを呼ぶ男の子がいる。その子がいれば、フランス人形の中にいるものも出てこられないだろうと思ったのだ。
仏壇の間に置いてからも、人形が布の隙間から覗いていることはあったが、前のように布を床に落とすことはなくなった。布がなくなると、災いを呼ぶ男の子から、隠れることができなくなってしまうからなのかも知れない。
それに、認めたくはないが、私は災いを呼ぶ男の子のお気に入りだ。仏壇の間で人形から出てきて、また私に取り憑こうとすれば、おそらく男の子が怒るだろう。
なんとなく可哀想にも思えるけれど、私だってまだ死にたくはない。それに、今回は父も一緒に死にそうになったので、仕方がないと思う。
父の話によれば、フロントガラスが一瞬真っ白になり、前が見えなくなって急ブレーキを踏んだら、スリップしたらしい。
しかし、一緒に乗っていた私には、そんな現象は見えなかったし、川に落ちそうになった時、はっきりと川が見えていたということは、フロントガラスは曇ったり、凍ったりはしていなかったはずだ。
そして、もう1つ不思議なことは、車は何ヶ所もガードレールにぶつかって削れていたが、川に落ちそうになる直前に大きな衝撃があった助手席のドアは、削れずにただ大きく凹んでいた。
車を見た修理業者のおじさんは、
「猪にでもぶつかられたのか?」
と言っていたが、私も父も猪は見ていない。おそらく、また私の守り神たちが助けてくれたのだと思う。
人間は死んで身体がなくなると、似たものの中に入りたがる。もし人形の中に何かの気配を感じても、意識を集中してはいけないのだ。
もし、自分が透明になって、誰にも気付いてもらえず、声も届かなくなったとして、そんな中で誰かが気付いてくれたら、どれだけの喜びを感じるだろう。
きっと付き纏って、どんなことをしてでも、自分の存在を知らせようとするだろう。それが取り憑くということだ。
たとえ視線に気付いたとしても、気付いていないふりをする。それが1番いいのだと思う。
あなたの家の人形は今、どこを見ていますか——
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