古の旅人 後編

 山の中に入ってしまうと、もちろん人間はいないし、車道も近くには無いので、普段聞きなれない音しかしなくなる。


 風が吹いて草の擦れる音、木々の枝がぶつかる音、たまに女性の声のような甲高い鳴き声も聞こえる。人はいないけれど、なんだか騒がしい。


 舗装されていない草だらけの山道を進んでいくと、途中には小さな池がある。その池は翠色で水の中は見えなくて、何となく深そうだと感じた。


 祖父によると昔はますが釣れていたらしいが、今は釣りをする人はいないので、辺りは静まり返っている。


 ここで釣りをしようと、誰かがますを放流したのだと言うが、こんなに薄気味の悪い場所で、誰が釣りをしようと考えたのか。おそらく、相当な変わり者だ。


 もし、神隠しにあって消えたとしても、後ろから熊に大きな爪でバッサリとやられたとしても、ここへ来たことのある人は皆口を揃えて、


「まぁ、そうでしょうね」と言うだろう。そんな場所だ。


 私もいつか、ここへ1人でお参りをしに来ることになるのか、と考えると逃げ出したくなる———。


 そこからまたさらに奥へ進むと、少し開けた場所があった。真ん中には、サッカーボールと同じくらいの大きさの石が高く積まれていて、紙垂しでが飾られている。


 紙垂とは、神社に行った時などによく見かけるもので、しめ縄や玉串に飾られている、白い紙をジグザグに切ったもののことだ。


 風に吹かれて、白い紙がゆらゆらと揺れている。


 周りは薄暗い山の中なのに、そこだけが別の空間のように思える。


 祖父から初めて荒神様がある場所を聞いた時は、なんでそんな山の中に……。と思ったが、それにはちゃんとした理由があった。

 

 実は、この荒神様は人間らしい——。


 今は獣道のようになってしまっているが、江戸時代、この山道は人や馬がたくさん行き交う、もっと広くて立派な道だったそうだ。


 長い年月が過ぎ、人が車を使うようになってからは、忘れられた道は手が行き届かなくなってしまった。今は草や木が生い茂り、道幅も狭くなっている。


 江戸時代にその道端で力尽きていた、名も知れない、誰かだ。


 大昔なので、免許証なんてないし、住民票すらあったかどうかも分からない。亡くなっていてはもう、どこの誰か知る術はなかったのだろう。


 その頃は地域の警察なんて無いので、何かあれば遠くの役所まで、何日もかけて歩いて行かなければならなかった。それなのに、苦労して役所まで辿り着いたとしても、届けた遺体はどちらにしろ身元は分からず、無縁仏むえんぼとけになってしまう時代だったらしい。


 その為、もし行き倒れている人がいれば、その土地の者でなければ、そのまま土葬していたようだ。


 もしも家族が探しに来た場合のことを考えると、近くに特徴を覚えている人がいた方が、ここで眠っていると教えてあげることができる。


 この地域だけでなく、全国的に行われていたはずだ。


 亡くなった旅人がどこから来たのか、どこへ行くはずだったのかも分からないが、不憫ふびんに思った私の先祖は、その人を荒神様として祀ったらしい。


 今はもう、その旅人がどちらの方向に向かっていたか、くらいしか伝わっていないが、まだここにいるということは、家族は探しに来なかったのかも知れない。


 もちろん土葬なので、この場所を掘り起こせば、確実に人骨がそのまま出てくることになる。


 最初は、人骨が出てくるような場所に行くのは怖い、と思っていた。しかし、実際に積み石の前まで行くと、不思議と怖さは感じない。


 むしろ心が澄んだような気がして、私は自分から進んで手を合わせた。

 

 そして、


 ——どうぞ安らかにお眠りください。と、心の中で唱えた。


 私が頭を上げると山の中に、風がさぁっ、と吹き抜けて行き、


 それはまるで、誰かが返事をしてくれたように感じた。


 優しくて心地良い風は、悪意など全く感じない。


 この場所は恐ろしい場所ではない、と分かった私は耳を澄ませた——。


 山に入った時からずっと感じる視線は何なのか、気になっていたからだ。すると、やはり周辺はざわざわと騒がしくて、それは遠い昔、ここが人々が行き交う広い道だった時の記憶なのかな、と思った。



 祖父と初めて訪れた荒神様。道中は草だらけの獣道で木が倒れていたり、分かれ道もあったけれど、おそらく私は1人で来ていても、荒神様に辿り着いていたと思う。


 初めて行った山の中なのに、何故か、導かれるように進む先が最初から分かっていたからだ。それはやはり、あの家を継げということなのだろうか。


 山の中に埋まっている人が旅人なら、もうここにその魂はいないのかも知れないが、帰る道中もずっと何かの視線を感じていた。陽の光が届かない山奥なのに、帰りは背中が暖かい。


 それはもしかしたら荒神様が、私達が道に迷わないように、見守ってくれているからなのかも知れない。


 この山で力尽きてしまった旅人は、きっと家には待っている人がいただろう。


 そして、どこへ向かって旅をしていたのだろう。


 身体は、山の奥にひっそりと眠ることになってしまったが、せめて魂だけは、家族の元へ辿り着いていて欲しい——。


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