子供が泣く家 3

 音を立てないように、ゆっくりとトイレのドアを開ける。


 すると、中から冷たい空気が出てきて、ふわっと手に当たった。まるで真冬の川の中に手を入れたみたいだ。頭痛もどんどん酷くなって行く。


 そして、中をそっと覗くと、黒い服を着た男性が、後ろ向きに立っているのが目に入った。


 立ち姿や服装からすると、若い男性に視える。


 いつもは霊体がぼんやりとしか視えない私が、はっきりと視えているのに、なぜ霊感が強い先輩には視えなかったのだろう。先輩が「波長が合わないと、視えないことがある」と言っていたので、私は男性と波長が合っているのだと思うが、全く嬉しくはない。


 ここにいる、と分かっていてドアを開けたが、やはり目の前で視ると、恐怖を感じる。私が人ならざるものの顔が分からないのが、せめてもの救いだ。私が霊感があるという秘密を知っている友人にも、怖くないのか、と訊かれるが、もし顔が見えていたら、やはり怖いと思う。


 後ろ向きに立っている男性は、そんなに嫌な気配はしていないが、暗く俯いていて、今にもマンションから飛び降りそうな雰囲気だ。そばにいると、なんとなく、私まで気分が重くなるが、それは俯く男性を視ているからではない気がする。


 ———あぁ、これは男性に引きずられてるんだ。


 そう思ったので、男性がこちらに気付かないように、そっとドアを閉めて、先輩がいるリビングに戻った。




 トイレにいた男性は、悪意がある感じではなく、ただそこに居るだけだった事と、正体は暗く俯いた若い男性だった、と伝えると先輩は、


「へー、そりゃ泣くわ」


 と、まるで他人事のように笑った。


 私が、どんな気持ちで人ならざるものがいる場所へ向かったか、彼女は全く理解していないのだろう。なんだか妙に腹が立った。


 ———もう頼まれたって、絶対に来ないからな! と、口には出せないので、心の中で叫ぶ。


 とりあえずトイレにいた男性は、害はなさそうだが、あまり長い間居座られるとよくないかも知れない。あの暗く俯いた感じに引きずられかねないからだ。自分の意思とは関係なく、同じような状態になってしまう場合もある。


 私と先輩が話している間も、子供はずっと泣いていた。


 先輩の子供なので、霊感が強くても不思議ではないが、私たちよりも先に気付いて泣いたという事は、相当敏感に気配を感じ取ることができるのだろう。


 5歳にも満たない小さな子は、人ならざるものが視える子も多いが、他の人たちが見えないものが視えてしまうのは、あまりいい事ではない。やはり、大きくなったら視えなくなるのが1番いいと思う。

 私は、泣いている子供をあやしながら、


 ———どうか、この子の力は消えますように。と祈った。

 

 そして、先輩があの暗い感じがするマンションを選んだ理由は、家賃が相場より安かったから。だそうだ。先輩は平気だから別にいい。と言っていたが、やはり、ただ安いから飛びつくのではなく、『なぜ安いのか』を一度考えてから選んだ方がいいのだと思う。


 私は先輩のマンションに着いた時、マンションだけでなく、すぐ横を流れている人工の川がやけに気になった。川は深い緑色をしていて、あまりよくない空気を感じたからだ。先輩に家賃が安いと聞いた私は、


「安いのは、何かあったからでしょ?」


 と問いかけた。すると先輩は、

 

「うん、そうなんだ。屋上から、下の川に身投げした人がいるんだって。3人いたらしいんだけど、なんで確実に死ねそうな道路じゃなくて、川に飛び込んだんだろうね。後で掃除が楽だから、とでも思ったのかな?」


 と、顔色を一切変えずに答えた。彼女はそこで誰かが亡くなっていようと、人ならざるものがいようと、本当に何も気にしないのだろう。そして、その話を聞いた私は思った。


 ———あぁ、だから気になったのか……。


 私の霊感は中途半端なので、その事実を聞くまで分からなかったが、なんの変哲もない人工の川が気になったのはなぜか。それは、川へ身投げした人がいて、そこから離れられなくなった霊魂が、また別の人を呼ぶ。そんな場所になっているのだろう。もしかすると、川が気になっていた私も、その犠牲者たちに呼ばれていたのかも知れない。


 ちなみに、私は深い緑色の川に視えていたが、どうやら違っていたらしく、私が「緑色の汚い川」と言うと先輩が、バカにしたように鼻で笑った。


「あんた、それ、他の人に言わない方がいいよ。バレても知らないからね。川の水は別ににごってないし、川の底にはコンクリートが見えてるよ。霊感があるのがバレたくないなら、ちゃんと切り替えないとね」


 ニヤニヤと笑みを浮かべる先輩を見ると悔しいが、私はまた、他の人とは違うものが視えているのが、分かっていなかったらしい。


 ———切り替えるって、一体何を切り替えるんだ! 


 と、心の中で悪態あくたいをつきながら外に出た。帰り道、もう一度川をのぞいてみると、本当に川の水はんでいる。先程、先輩に「川の水は濁っていない」と教えてもらったので、本来の姿が見えるのだろう。


 これだから余計な事は話せない。

 ———中途半端な力なんて、嫌な記憶と一緒に、全部消えてくれたらいいのに……。



 そして、バイト先へ向かいながら、ふと思った。


 ———すぐ横の川に、飛び降り自殺をした人が何人もいる事を、マンションの他の住人たちは知っているのだろうか?



 何も知らない方が、幸せに生きて行けるのかも知れない———。

 


 

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