視えるひと 3
女性が立っている店の中からは、大きな笑い声が聞こえる。まだ開いているはずなのに、女性がドアの前に立ち尽くしていることを、不思議に思った。
それに、店の前の通路は狭く、女性が真ん中に立っていると、通りづらい。
———まぁ、近くまで行けば気付くだろう。
そう考えながら、わざと足音を立てて、女性の方へ進む。しかし、女性が一度もこちらを見ないまま、私は店の前に着いてしまった。
女性は相変わらず、私に気付いていないようで、全く避ける気配がない。ただ、じっと店のドアを見つめている。
———こんなに近くまで寄っても、気付かないなんて……。
本当は、女性が自ら避けてくれるのが一番だが、気付かないのなら、仕方がない。
「すみません」
私は女性の真横で言った。もちろんそれで気付いてくれると思ったが……女性は、何の反応もしない。
———聞こえなかったのかな?
普通に話すくらいの声量で言ったはずだが、聞こえないのなら、声を大きくするしかない。知らない男がいつまでも横に立っていたら、この女性だって、嫌なはずだ。
「すみません!」
腹に力を入れて言うと、女性はやっと気付いてくれたようで、ゆっくりとこちらを向いた。女性は、下の方から舐めるように、私を見上げる———。
「えっ」思わず声が漏れた。
女性の顔は汗だくだ。それに、飛び出しそうな程、見開いている目は、赤く血走っている。
ただ無言でこちらを見ているだけだが、まるでナイフを突きつけられているかのような感覚に襲われた。身体中がチクチクと、無数の細い針で刺されているような痛みを感じて、全ての毛穴から汗が噴き出す。
そして、どこを見ているか分からない目が突然、白目をむいた。
思わず「ひぃっ!」と、言葉にならない声が漏れる。心臓の鼓動が痛いほど早くなり、もう頭の中は真っ白だ。
『怖い』『この場から逃げたい』その2つの感情だけが私を動かす。私は、壁と女性の隙間を勢いよく抜けて、ビルの出口へ向かって走った。
暗い階段を駆け下り、ビルの外へ飛び出す。
———何なんだよ、あの女の人……!
外へ出ても、身体はまだ震えている。女性の顔を思い浮かべると、冷たいものが背筋を
———あの人は本当に、生きている人間だったのかな……?
そんなことを考えていると、階段からドタドタと足音が聞こえてきた。私がそちらへ目をやると、青い顔をしたセタがビルから走り出てきて、その勢いのまま、私に抱きついた。
「ねぇ! 2階に女の人いなかった!?」
呼吸がしづらい程の強い力で、セタは私を抱きしめる。
「いたよ。もしかすると、悪霊か何かだったかも知れない、と思ったけど……。でも、セタに視えるって事は、普通の生きてる人間だったってことだよな……?」
「本当に!? 本当に、生きてる人だった!? 俺、人生で1番怖かったんだけど!」
セタは震える声で叫び、私を抱きしめる腕に、さらに力を入れた。
おそらくセタも、私と同じものを視たのだろう。あの女性が生きている人間だったとしても、そうではなかったにしても、泣きたくなる気持ちは、とてもよく分かる。まるでホラー映画に出てくる化け物が、目の前に現れたかのようだった。
しかし、セタは人ならざるものを視る事ができないので、おそらく、生きている人間なのだろう……。という話に落ち着いた。
そして、自分の家に1人で帰れなくなったセタが、私の部屋に泊まったのは、言うまでもない。彼は怖がりなのだ。
その数日後。
今にも泣き出しそうな声のセタから、電話がかかってきた。
「この間の女の人のことを、店長に話したら、『ついて行ったら、死ぬわよ?』って言われたんだけど、どういう意味だと思う?」
「あぁ。店長は、知ってたんだ……」
「そうだと思うけど……。だから、どういう意味なんだよ」
「どういう意味って……そういう意味でしょ」
店長の言葉の意味を考えていると、ビルの階段を登っている時のことを思い出した。私は、2階の廊下が見える辺りで、耳鳴りを感じていたのだ。あれは気のせいではなく、
そして店長が言った『ついて行ったら』とは一体、何について行ってはいけない、という意味だったのだろうか。
店長は、それ以上のことは教えてくれなかったようだが、話の最後に、
「下のスナックの従業員は、よく消えるんだって」
そう言って、微笑んだそうだ。
店長は、なぜそんなことを言ったのだろう。気にはなったが、なんとなくそれ以上は、聞かない方が、いい気がした———。
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