祖母の教え 後編
——あれ?
不思議に思ってハンドルに目をやった瞬間。今度は車が蛇行し始めて、操作ができなくなってしまった。
ブレーキを踏んでいるはずなのに、どんどんスピードが上がって行く。焦っている内に車はクルクルと回り始めて、自分がどの方向に向いているのかも分からなくなった。こうなるともう、自分で出来ることは何もない。そして。
ガシャーン! という大きな音と共に、身体に強い衝撃を受けた。
目を開けなくても分かる。ガードレールに突っ込んでしまったのだ。周りに他の車はいなかったので、他人には迷惑をかけずに済んだが、自分の車は確実に破損していると分かっている。
恐る恐る車から降りてみると——。車が、ガードレールの柱にめり込んで、ボンネットは、くしゃくしゃになって潰れていた。
「うわぁ……。どうしよう……」
エンジンが掛かるかどうか、試してみようかとも思ったが、素人の私が見ても、エンジンルームが潰れているのが分かる。車が燃えたり爆発したりすると、もっと大変なことになると思った私は、知り合いの修理業者に来てもらうことにした。
それから15分ほど車の中で呆然としていると、修理業者の車が来て、知り合いの男性が降りてきたが——こちらを見た途端に血相を変えて、走ってきた。
「おい! 大丈夫か? 怪我は!」
男性は大きな声で叫びながら、車の窓を叩く。たしかに車は前が潰れているが、私に怪我はない。それに、自分で修理業者に電話をしているので、話せる状態だということは分かっているはずだ。男性が慌てている理由が、よく分からない。
私は後部座席に座っていたので、すぐに車から降りて「怪我は無いですよ。大丈夫です」と頷いた。
しかし業者の男性は、眉間に皺を寄せたままで私を見ている。
「本当に、ちゃんと見たか? 脚を見せてみろ」
男性は腰を落として、私の脛の辺りをポンポン、と叩く。
——なんで、脚を見せないといけないんだろう?
不思議に思ったが、男性があまりにも真剣な顔で言うので、私は仕方なく、裾を捲って脚を見せた。
「あ……」
左脚の膝が、ほんの少し赤くなっている。痛みはなかったので、自分では気付いていなかった。
「良かったなぁ、これくらいで済んで。事故で足が無くなっても、自分でそれを見なかったら気付かない、と聞いたことがあるから、もしかしたら……。と思ったよ」
男性は、安堵したような表情で私を見た。
男性が焦っていた理由は、カードレールの柱にめり込んでいた部分が、ちょうど左脚がある場所だったから、だそうだ。プロが見ると、車の外からでも、それが分かるのだという。
——そういえば、運転席に座ろうとしたら、座れなかったな……。
脚は無事だったが、もし、ぶつかった位置が私の正面だったら、どうなっていたのだろうか。もしかすると、ハンドルで身体が押し潰されて死んでいたのかも知れないと思うと、ゾッとする。
結局、車は動かさない方がいいということになり、私は修理業者の男性に家まで送ってもらった。お礼を言って、車が去って行くのを見送る。
「今日は本当に、ついてないな……」
ため息をつきながら、バッグの中に手を突っ込む。
そしてバッグから鍵を取り出そうとしたが、何かに引っ掛かっているのか、出てこなかった。
「あれ? 何に引っ掛かってるんだろう?」
確認するために、バッグを廊下に置いて広げてみると——鍵につけた人形の両脚が、伸びてボロボロになってしまっている。朝、鍵を閉めた時は、こんなことにはなっていなかったはずだ。
その時ふと、祖母の言葉を思い出した——。
『いつも使っているものが急に壊れてしまったら、しばらくは怪我に気をつけなさい』
祖母はそう言っていた。
——もしかして、この人形が、怪我を引き受けてくれたのかな。
事故を起こした時に、もっと大きな怪我をしていてもおかしくなかったはずだ。
よく考えてみると、事故車を見慣れているはずの修理業者の男性が、あんなに慌てふためく程に、車が潰れていたのだ。運転席にいた私が、膝が少し赤くなるだけで済んだのは、奇跡としか言いようがない。
それに、私が事故の後で、運転席に座れなかったのは、脚が中に入らなかったからだ。足元が完全に潰れてしまっていたことを考えると、一度、車から降りる前は、私の脚はどうやって中に収まっていたのだろうか。
私は、脚がボロボロになってしまった黄色い人形を見つめた。
「……ありがとう」
人形の顔を撫でると、小さなビーズしか付いていない顔が、なんだか笑っているような気がした。
物は長く使うと、魂が宿ると聞いたことがある。
長い間一緒にいた黄色い人形は、私のことを守ってくれていたのかも知れない——。
碧絃の怪奇録〜誰にも言ってはいけない、不思議で奇妙な話〜 碧絃(aoi) @aoi-neco
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