鈴の音 3
驚いた私は、いつもは見ないようにしていた、元社員寮の廃墟の方を、向いてしまった。
———何か、いる……!
たとえ何かがいたとしても、注視しなければ視えなかったかも知れない。しかし、普通の目には見えない猫を探してしまった私の目に映ったのは、猫ではなく、廃墟の住人たちだった。
割れたガラスの向こうには、いくつもの人影が揺れる。
奥の方から、ゆらりと出てきては、私に視線を向けた。
たしかに今までは、廃墟の方を見ないようにしていたが、そんなにたくさんの気配は、一度も感じた事がない。悪意のあるものがここまで集まっていたのなら、もっと早くに気が付いたはずだ。
彼らは、私が路地を通り始めるずっと前から、廃墟の中にいたに違いないのだから。
気付いた瞬間から、身体中がビリビリとした痛みを感じ、呼吸が苦しくなって行く。逃げたくても、まるで押さえつけられたみたいに身体が動かない。
肉食獣の群れに囲まれてしまった獲物は、きっとこんな気分なのだろう。恐怖で何も考えられなくなって行く。
廃墟の住人たちは、顔が視えなくても、皆こちらを見ているのが分かった。明らかな悪意を感じるのは、おそらく気のせいではない。
まるで身体中に、無数の針を刺されたように感じる。
恐怖で目を逸らすこともできない。
すると、激しい耳鳴りに混じって、何かザワザワ……という音が聞こえてきた。
———何の音だろう……。
意識を集中するとそれは、男性が怒鳴るような声だと気が付いた。何を言っているのかは聞き取れないが、私に向かって叫んでいるのは分かる。
恐ろしくなり、のけ反ると、急に引っ張られるような感じがして、足がジリジリと前へ出た。
———呼ばれてるんだ!
やっと理解しても、自分ではもう、どうすることもできない。身体は少しづつ、廃墟へ近付いて行く。
私が注視してしまったせいで、廃墟の住人たちと繋がってしまったようだ。
その間にも、人影はどんどん増えていく。
大勢の声が、響いて聞こえる。
たくさんの見えない手が、私を引っ張っている。
そして、最初から1番手前にいたものが、割れたガラスに———手をかけた。
「あっ」思わず身体が、びくん、と跳ねた。
———もし廃墟から出てきたら、どこまで追いかけてくるか分からない……!
混乱した頭でも理解できた。
今までに、何度も取り憑かれて味わった恐怖と苦しみが、脳裏を過ぎり、息が出来なくなる。
もし、体調が悪くなるだけじゃ済まなかったら?
取り憑かれて、人が変わってしまった友人のようになったら?
また、死にかけるような事故に遭わされるかも知れない。
もしかしたら、今回は死ぬかも知れないじゃないか。
———怖い、怖い! 誰か助けて……!
そう思った時、急におでこの辺りで何かが、パンっと弾けた感じがして、急に身体が動くようになった。
一瞬、何が起こったのか分からなかったが、逃げるなら今しかないと思った私は、急いで走り出し、友人の部屋へ向かった。
もしかしたら、廃墟の住人たちが付いてくるかも知れない。そう思わなかったと言えば嘘になるが、友人に迷惑をかけるという事よりも、恐怖の方が優ってしまったのだ。
一刻も早く、誰かのそばに行きたかった。
息を切らせながら部屋へ着くと、友人は少し酔っ払っていて、
「遅かったじゃん!」と、私の肩を強く叩いた。友人の温かい手が、今は心強い。
すると、身体の力がスッと抜けて、呼吸も楽になった。
身体が冷たくなるくらい汗をかいていた私は、きっと酷い顔をしていたに違いない。もし、「大丈夫?」なんて優しい言葉をかけられていたら、多分泣いてしまっていただろう。
友人は、よく分からない鼻歌を歌いながら、部屋の奥へ入って行く。私が動揺しているのにも、気が付いていない様子だ。私は、彼が酔っ払っていて良かった、と胸を撫で下ろした。
理由を訊かれたところで、私は何も話せない。
霊感があることは、誰にも知られてはいけないのだ。
それから何度か、その友人と遊ぶ機会はあったが、廃墟がある路地を通りたくなくて、しばらくの間はアパートへは行かなかった。
恐怖が薄れ、再び友人のアパートを訪れたのは、半年くらい経った頃だ。
すると、元社員寮の廃墟は無くなり、更地になっていた。
空気の
そして、路地を歩いていると、また鈴の音が聞こえた。
以前と同じように、私の足音に合わせて、チリン、チリン、と音がする。自分でも変な感じがしたが、なんだか少し安心した。
日本人は、神社や寺にまつわるものは神聖なもの、というイメージが染み付いている。参拝の時に鳴らす鈴や、神事の際に聞く
もしかすると廃墟の住人たちは、猫の鈴の音を嫌って、避けていたのかも知れない。悪意を持った自分たちが、祓われる存在だと認識していたのだろうか。
どこからか聞こえる、人の声。
動物や、鳥の鳴き声。
足音や、何かが動く音。
あれは、他の人にも聞こえているのだろうか。
それとも、私にしか聞こえていないのか。
いくら考えても、やっぱり私には、分からない。
1つだけ確かなのは、
「すみません」
声をかけられ振り向くと———誰もいない。
そんな日常がある。
ただ、それだけだ———。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます