あかね色の部屋 後編

「疲れているんでしょう? 少し寝ていたら?」


 女性は優しい笑みを浮かべる。彼女は本当に、私の気持ちをよく分かってくれる人だ。彼女のような優しい人が家族にいたら、私はもっと、幸せだったのかも知れない。


「じゃあ少しだけ、寝てから帰ります」


 私が言うと、女性は「こっちよ」と私の手を引いた。女性と一緒に音楽室の中に入って行くと、奥には小さな部屋があり、そこは音楽室よりも少し高くなっている。


 ———こんな部屋、あったかな?


 私が立ち止まると、


「ここなら誰にも邪魔されずに、寝ていられるから」


 と、女性は私の背中をそっと押す。早く眠りたかった私は、導かれるままに部屋へと続く階段を上った。たった2段上るだけでもふらつく程眠いので、もう他の事は何も考えられない。


 小さな部屋は、夕陽の茜色に染まっている。そして、部屋に入る手前には、半分開いている赤いカーテンがあったので、私はそのカーテンに、手を伸ばした。


 すると、急に視界がぐるりと回り、思わず足元がふらついてしまった。倒れはしなかったが、まるで、貧血にでもなったかのような感じだ。


 ———びっくりした。疲れているのかな?


 私が顔を上げると———そこにあったはずの部屋は消えていて、遠くにある山の稜線りょうせんと、沈みかけている夕陽が見える。


「えっ……?」


 一瞬、頭の中が真白になった。まばたきをする間に変わってしまったのは、景色だけではない。音楽室の中にいたはずなのに、全身に風が当たっている———。


 身体が冷たくなっていくような、嫌な予感がした。私がゆっくりと足元に目をやると、やはりそこは、部屋の中ではない。私が立っているのは、3階のバルコニーの、手すりの部分だった。


 下を見た瞬間に、身体が固まってしまった私は、呼吸もうまくできない。高所恐怖症の私は、落ちる瞬間を想像してしまったのだ。1ミリも動きたくないのに、身体はガタガタと震え、足腰に力が入らない。

 

 せめて何かにつかまりたいと思ったが、掴まれる場所は、自分の足元にある手すりしかない状態だ。手すりに掴まる為には、下を見ずに、この体勢のまま、腰を下ろさなければならない。


 頭では分かっていても、高所恐怖症の私には、それができなかった。私は、座るどころか、前に伸ばした腕を引っ込める事もできないのだ。


 風が吹く度に、宙に浮いた腕が揺れて、少しでも身体が動いたら落ちるのが分かる。


 ほんの少し前までは、女性と話をしていたはずなのに、なぜこんなことになってしまっているのだろうか。


 高い場所にいるという恐怖なのか、呼吸が上手くできないせいなのかは分からないが、眩暈めまいがした。段々と目の前が白くなって行き、周りの音が遠のく。


 するとその時、前方から左肩を、トン、と押された感じがした。


 意識が朦朧もうろうとしていた私は、足に力が入らず、手すりの部分からバルコニーの中に落ちた。受け身を取れなかったので、落ちた時に打ち付けた左手や足が痛む。ただ、バルコニーの中に入れたおかげで、やっと、まともに呼吸をすることができた。


 私は呼吸を整える為に、何度も深呼吸をする。それでも、震えは治まらず、身体は冷たいままだ。目をつむると、高い場所から見た、あの光景がよみがえる。


 私は放心状態で、バルコニーに座り込んでいた。すると、


「どうしたんだ!」


 と、野太い声が飛んできた。見回りをしていた体育の先生が、私が座り込んでいることに気が付いたようだ。


 発作のような状態におちいった後だったので、私は、かなり酷い顔をしていたに違いない。おそらく先生には、私が自殺でもしようとしていたように見えただろう。


 放心状態で、自分で立つことができなかった私は、心配した先生に背負われて、保健室へ連れて行かれることになった。


 そして、保健室のソファーに寝かされて、保健の先生と話をしていると、校長先生や担任の先生が、ドタドタと足音を立てながらやってきた。


 先生たちは保健室に入ってくるなり、寝転がっている私の顔を覗き込む。


「なんで、3階のバルコニーにいたんだ」

「何をしていたんだ」

「他に誰かいたのか?」


 先生たちは、私の返事を待たずに、矢継やつぎ早に訊いてくる。それは、しばらくの間続いたが、まだ唇が震えていたので、ほとんど答えられなかった。


 それに、答えたとしても、本当のことは言えるはずもない。


「女性の幽霊に、あるはずがない部屋に連れて行かれて、気が付いたらバルコニーの手すりに立たされていました。おそらく、殺されそうになっていたんだと思います」


 なんて言うと、保健室どころか、明日からは精神科に通わされることになるだろう。


 ———なんて言えばいいんだろう……。


 私は働いてくれない頭で、色々と考えた。大人たちが納得してくれそうな、無難な答えは何だろうか。


 ———そうだ。


「バルコニーから部活をしている友達を見ていたら、気分が悪くなっただけです」


 私が言うと、先生たちは、やっと静かになった。ただ、本当に納得していたわけではなかったようで、そこから数日間は、やたらと先生たちに話しかけられることになった。


 別に、自分の意思で飛び降りようとしたわけではないが、私が本当の事を言えないので、どこかに違和感が生じているのかも知れない———。


 


 体育の先生に背負われた時、バルコニーに椅子が1つ、置いてあるのが見えた。もちろん、私はそんなものを置いた記憶はないが、どうやら、椅子を階段だと思って上ったようだ。


 そして、音楽室の中に招かれた時には、女性の事を知っている人だと思い込んで話をしていたが、音楽室を離れると、もうそれが誰だったかを思い出す事はできなかった。


 薄いピンクのワンピースを着ていて、肩までの長さがある茶色の髪。それはちゃんと覚えているのに、顔だけは、白く発光した感じになってしまっている。


 顔が分からないという事は、生きている人ではないということだ。


 なぜあの時は、それが分からなかったのだろうか。

 

 それに、音楽室の怪談話が本当の事だったとして、人ならざるものがずっといたのなら、私はなぜ、その気配に気付くことができなかったのだろうか。


 あまり考えたくはないが、もしかしたら……。

 

 中学校に入学して、音楽室へ行く度に眠くなっていたのは、陽当たりがいいからではなく、すでに、彼女に招かれていたから、なのかも知れない———。

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