夜勤(後編)

 朝からなんとなく憂鬱ゆううつな気分で足が重い。それでも、仕事なので気を取り直して病室へ向かう。


 その日は、亡くなったばかりの患者がいた部屋を見まわることになったが、その部屋は男性の4人部屋で、亡くなった男性以外の3人の患者が寝ている。


 別に一人きりになる訳ではないので、恐ろしいとは感じていなかった。


 いつも通りに病室の扉を静かに開けて、中へ足を踏み入れる。


 そして小さなライトを、部屋の中に向けた———その時。


 思いもよらぬのものが、目に飛び込んできた。



 正面のカーテンの前に、男性が後ろ向きで立っている———。



 患者が亡くなった。という言葉が脳裏を過り、サクラは硬直してしまった。一瞬、頭の中が真っ白になり、恐怖よりも先に、


 ———幽霊って、本当にいるんだな……。


 と心の中でつぶやいた。


 手持ちのライトの光が当たっている男性の、身体の一部は透けていて、後ろのカーテンが見えている。目の前に立っているのが生きている人間なら、後ろのカーテンが見えるはずがない———。思考回路が停止していても、それが分かった。


 男性は後ろで手を組んで、カーテンが閉まっている窓から、外をながめているようだ。数日前に、男性患者が、同じように後ろで手を組んで外を眺めていた光景が、脳裏によみがえる。


 窓側のベッドにいた男性の術後の経過は良好で、もうすぐ退院するはずだったが、急に容態が悪化し、その日の内に亡くなったのだ。


 そこでやっと、立っているのが亡くなった男性患者だと気付いたサクラは、恐怖のあまり声も出せず、身体が動かなくなってしまった。


 もうこれ以上男性の姿を見たくないと思っても、目をつむることもできない。ただ男性をライトで照らし続けたまま、その場に立ち尽くしていた。


 ———自分が怖がっているから、幻覚が見えただけだ……。


 何度もそう思い込もうとしたが、しばらくすると男性はゆっくりと振り返った。そして、


 サクラを見ながら、手招きをした。


 生きている頃と同じように、優しい笑みを浮かべて———。


 その瞬間、身体はガタガタと震え出して止まらなくなり、うまく呼吸ができなくなった。手持ちのライトの光が、ものすごい速さで左右に動いている。


 それでも、男性の姿は真っ暗な部屋の中でもハッキリと視えていて、生きている人間ではなく、霊なのだと思い知らされた。


 男性はずっと手招きをしていて、まるで「一緒にあの世へ行こう」と言っているように感じる。

 

 サクラは男性を直視する事ができなくなり、目をぎゅっと閉じて、


 ごめんなさい、ごめんなさい、と心の中で何度も謝った。


 本当なら『南無阿弥陀仏なむあみだぶつ』と唱えるのかも知れないが、パニックになっているので、そんな言葉は出てこなかった。ただひたすら謝りながら、いなくなってくれることを願う。


 そしてしばらくして、恐る恐る目を開けると———、


 男性は消えていた。


 サクラが大きく息を吐いた後、部屋の中をライトで照らして確認すると、その男性が立っていた場所の隣には、空になってしまったベッドがある。


 ———やっぱり、そうか……。


 それを見たサクラは、亡くなったばかりの患者さんだったので、自分が死んだ事が分からずに、部屋に戻って来たのかも知れない、と思った———。



 というのが、サクラが夜勤の時に体験した話だ。


 サクラは元々霊感はないが、毎日病院へ通っているうちに影響を受けて、病院の中と波長が合ってしまったのかも知れない。


 現に病院の中以外では、心霊体験をしたことはないそうだ。


 そして、それらの体験だけでも充分恐怖を味わったにもかかわらず、とどめを刺す出来事が起こったらしい。


 数日前。手術で切り落とされた足を運んでいたサクラが、ふと違和感を感じ、そちらに目をやると、白くてうっすらとした手が、その足を掴んでいるのが視えたらしい。


 驚くというよりは、一気に全身の血が冷たくなるのを感じ、その後は放心状態で、仕事にならなかったそうだ。


 もうこれ以上恐ろしい体験をしたくないので病院を辞めたい、とサクラは言っていたが、結局辞めずに、今も毎日頑張って働いている。


 サクラの話を聞いて、心霊現象に慣れている私は、


 ———ただ視えるだけなら問題ないじゃないか。

 

 と思ってしまったが、それを言うとサクラが怒り出しそうな気がしたので、口には出さなかった。


 それにサクラは、私に霊感がある事を知らないので、ただ話を聞いてあげる事しかできないが、何度も心霊体験をしていれば、多少は慣れていくだろう。


 ただ、友人が何かに取り憑かれるのは困るので一応、


「幽霊に興味を持ったら、取り憑かれるらしいよ? 気をつけなよ?」


 と、おどしておいた。


 元々苦手なのは知っているので、大丈夫だとは思うが、念の為だ。


 それに、サクラには暖かいオレンジ色のような、明るくて大きな気配がするものが憑いているので、きっと彼女を守ってくれるだろう。



「病院って、夜になると何か出そう」


 おそらく、多くの人が漠然ばくぜんと思っている事だと思うが、どうやらこれは、本当のことだったようだ。


 

 その後も、サクラが夜勤で暗闇に包まれた廊下を歩く度に、目の端には動くものが映り、誰のいないはずの病室からはささくような声が聞こえるが、


 ———全部、気のせいだ。


 サクラは、そう思い込むことにしているらしい———。

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