おひなさま 2
その日の夜は、とても寝苦しかった。
起き上がった私は水を飲もうと、真っ暗な廊下へ出る。すると奥の部屋が、明るくなっていることに気が付いた。部屋の電気がついているというよりも、ぼんやりとした明かりが見える。
——父さんか、母さんが、テレビを消し忘れたのかも知れない。
私は、奥の部屋の扉を開けた。
すると正面には、雛人形の段飾りがある。玄関の横にある部屋に置いてあるものが、なぜここにあるのだろうか。それに、うっすらと光っている。
——なんで、雛人形が光っているんだろう。電気はついていないのに……。
普段なら、恐ろしくなって逃げるだろう。しかし何故か私は、ゆっくりと雛人形の方へ向かう。そうすることが、当たり前だと思った。まるで吸い寄せられるように、女雛がいる右側へ向かって歩く。そして、段飾りの手前で立ち止まった。
他の人形はどこを見ているか分からないのに、女雛はじっと私を見つめている。何か言いたげな顔をして——。
その時、ふと、頭上に強い気配があるのを感じた。
大きな大人に
私を睨みつけているものは、一体、何者なのだろう……。恐る恐る、見上げると——。
女雛が見えた。
自分と同じくらいの大きさの女雛が、宙に浮いている。
「はっ」と小さく声が
恐ろしくて、口を開けたまま震える私を、女雛は無表情で見下ろしていた。その顔は、怒っているようにも見えるし、ただ見下しているようにも見える。
耐えきれなくなった私は、
——誰か……!
叫ぼうとしても、やはり声は出ない。
早く部屋から出たくても、まっすぐに走れないほど、足が震える。
すると、左上から何かが迫ってくる気配がした。女雛が追いかけて来たのだと思った私は、そちらに目をやるが——何もいなかった。
間違いなく、何かが迫ってくる気配を感じたはずなのに、部屋の中は、しん、と静まり返っている。先程はうっすらと光っていた他の雛人形たちも、もう光ってはいない。
——良かった……いなくなってくれたんだ……。
私は、ほっと胸を
女雛は、ただ私を
ドンっ! と、固いものにぶつかった。
打ちつけた鼻が痛い。両手で顔を
——なんで、こんなところに壁が……。
鼻の痛みは治まらず、さらにギュッと目を瞑ると、涙が1粒こぼれ落ちた。そして、それと同時に、
——え? 何……?
私は動いていないのに、何かが当たってきたのだ。
顔を覆っている手が、汗でべっとりと
この部屋にいるのは私と、それから——。嫌な胸騒ぎがして、また呼吸が苦しくなったが、このまま確認しないわけにはいかない。私は覚悟を決めて、そっと目を開ける。すると、
目の前には、大きな目があった。
同じ目線で、私の目をじっと見つめる女雛の目は、奥の方が黄色の光を帯びていた。なんの表情もなく、瞬きをすることもない。何かを語りかけてくるわけでもなく、ただ、ぶつかりそうなほど近くで、私を見つめた。
少しでも距離を取ろうと、私が後退りをすると、女雛も私にピッタリとついてくる。女雛が動くたびに、飛びかかられそうな気がした。
——どうしよう、どうしよう! あっ、そういえば……。
ふと思い出した。人ならざるもの達には、境界のようなものがあって、その外に出てしまえば、追って来ない場合もある。私は女雛を避けて、思い切り走って廊下へ出た。
そして、もう大丈夫だろうと振り向いたが、女雛は私のすぐ後ろにいた。女雛には、境界なんて関係なかったようだ。そうなると、やはり走って逃げるしかない。
今いる場所は2階なので、階段を下りて、母屋へ逃げよう思った。廊下を走って、階段の近くまで辿り着き、手すりをつかもうと手を伸ばす——。
突然、ドンっ! っと、背中に衝撃を受けた。
あっ! と思った瞬間には、身体は前に倒れ、硬い塊と一緒に階段を転げ落ちて行く。身体のあちこちに痛みを感じ、目がまわる。
そして背中に激しい痛みが走り、着地したのが分かった。おそらく階段の下まで落ちたのだろう。まだ目がまわっているが、背中の痛みが、仰向けの状態になっているのを教えてくれた。
私は呼吸を整え、ゆっくりと目を開ける。すると目の前には、また女雛の顔があった。
——なんで……。どこまでついてくるんだよ……。
目尻から出た温かいものが、こめかみへ流れて行った。
女雛の目の奥には、黄色い光が揺れている。言葉は発していないが、何かを言いたそうにしているのは分かる。
そして女雛はゆらりと宙に浮き、私の腹の上に、どすんと落ちてきた。
「うぅっ!」とうめき声が
自分と同じくらいの大きさとは思えないほど、重い。苦しくて、息が吸えなくなり、女雛が乗ってない部分に、血液が溜まって行く。
うめき声を上げる私を、女雛が静かに見下ろしている。苦しめたいというよりは、苦しんでいる顔が見たいのだろうと思った。
段々と意識が
そして女雛の目が、喜んでいるように細くなったのが視えて、意識が途絶えた——。
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