穢れた土地 後編

 店の近くには、大きな川が流れている。


 その川は流れが緩やかで、普段は水量もそんなに多くない。浅瀬では小さな子供たちが遊ぶ姿をよく見かけるが、私は初めて近くを通った時から、その川に妙な雰囲気を感じていた。


 川の中を見つめていると、大きな蛇のようなものが、ゆっくりと動いているような気配を感じるのだ。しかし、目に見えるわけではない。


 そして、暗くなって雷が鳴っているような、嫌な雰囲気を感じた後に、大雨が降り続いた事があった。川は氾濫はんらんして、避難を呼びかける警報が鳴り響き、バイト中だった私たちは家へ帰された。


 川はそれまでにも、何度も氾濫していて、人や車が流された事があると聞いた。行方不明になって、遠くの海で見つかった人もいるらしい。


 一度だけ、大雨の時に川のそばを通った事があるが、普段の川からは想像ができないくらい、荒れ狂っていた。台風が来ると、海岸に大波が打ち寄せられる様子がテレビで流れるが、それと同じくらいの勢いで水を被ってしまった私は、恐怖を感じた。


 私は車に乗って橋の上にいたが、もし車ではなくバイクだったら、そのまま川に飲み込まれていたかも知れない。


 ただの自然現象というよりは、何かの災いのようで、私は、恐ろしいはずなのに、なぜか川の方へ行きたくなってしまった。もしそれが、見えない何かに呼ばれていたのだとすれば、何度か気配を感じたことがある、あの大きな蛇のようなもののせいなのかも知れない。



 そして、そんな場所でアルバイトをしていた私には、いつも気になっている事があった。


 それは、周辺の匂いだ。


 私が住んでいる地域では、免許を取ると、練習も兼ねて行く牧場がある。私も免許を取った時には、友人たちと一緒に行った場所だ。


 牧場には広い牛小屋があり、牛と触れ合う体験ができる。飲食店もあり、休日は多くの人で賑わう場所だ。そこの匂いと似ている気がした。


 アルバイト先の周辺は、晴れていても雨上がりの曇天どんてんのような雰囲気で、何となくくぼんだ感じのする場所だった。


 そしてその窪みに、臭い匂いが溜まっている感じがするのだ。


 あまりにも酷い匂いに耐えきれなくなった私は、一緒に外掃除をしていたバイト仲間に、相談したことがある。


「外に出ると、本当に臭いよね。全然慣れないよ」


 するとバイト仲間は、


「何が? ラーメンの匂い?」と不思議そうな顔をした。


 たしかに近くのラーメン屋の匂いもしていたが、それをかき消すほどの、きつい匂いが漂っている。私なら、たとえ鼻がつまっていたとしても、気付くだろう。


 私は、彼が本当に分かっていないのかを確かめる為に、単刀直入に訊いてみた。


「牛小屋みたいな、臭い匂いがするでしょう?」

 

 何の匂いかはっきりと伝えたら、もちろん彼も分かると思ったのだ。


 しかし彼は、


「牛小屋? ラーメンは豚じゃないの?」


 と、眉間みけんしわを寄せた。


 やはり彼には、食べ物の匂いしかしていないようだ。


 怪訝けげんな表情で私の顔を見る彼に、それ以上、何を言っても無駄な気がしたので、私は「何でもない」と言って掃除に戻った。




 そこから数日が過ぎたある日。バイト終わりに数人で食事をしてると、いつの間にか、夜中の2時を過ぎていたことがあった。


 店の外に出ると、もう周りの飲食店は閉まっている。もちろん、食べ物の匂いはしていなかったので、私はその場にいたバイト仲間たちに、訊いた。


「ねぇ。この辺りって、牛小屋みたいな匂いがするよね?」


 食べ物の匂いがしない今なら、この匂いに気付いてもらえるだろう、と思ったのだ。しかし、バイト仲間たちは、


「牛小屋の匂いなんてしないよ。車の排気ガスの匂いと、間違えてるんじゃないの?」


 と笑うだけだった。


 たしかに、店の目の前は交通量が多い道路だ。しかし、排気ガスの匂いがどんな匂いかは、分かっている。


 ———なんか納得いかないな……。と思いながら、その後はもう何も言わなかった。


 そしてその頃から、何かがおかしい、とも思い始めた。


 あまりに酷い匂いだったので、もちろん近くに発生源があって、誰もが分かるものだと思い込んでいたが、もしかすると、そうではなかったのかも知れない。



 ある日の外掃除中、店の裏に住んでいるおじいさんと出会した。


 おじいさんは、生まれてからずっと、店の裏に住んでいて、近所の噂話は全部知っているような物知りだ。


 私はそのおじいさんなら、牛小屋の匂いがする理由を知っているかも知れない、と思い、尋ねた。


「店に来ると、いつも牛小屋みたいな匂いがして、鼻が痛いんだよね。でも、みんなは、そんな匂いはしないって言うんだ。この辺に牛を飼っている所はある?」


 すると、おじいさんは少し間を空けてから、


「———昔、この辺りには、大規模な屠殺場とさつじょうがあったらしいよ。……牛もやっぱり、怨みがあったのかね……」


 と物憂ものうげな表情でつぶやいた。


 屠殺場とは、牛や豚、鶏などの家畜を殺して解体し、食肉に加工する施設のことだ。


 店へ行けば当たり前のように肉が並んでいて、何も考えずに食べているが、その裏では、たくさんの動物たちが犠牲になっている。


 嗅覚が鋭い動物達は、自分が今からどんな目に遭うのかを、分かっていただろう。怨んでいて当然だ。


 今は広い通り沿いに、飲食店やドラッグストアなどが立ち並び、たくさんの人が行き来する賑やかな場所だが、そこは、大規模な屠殺場の後に作られた街だった。


 店の裏の公園にいつも座っているおじいさんは、80歳くらいだ。そのおじいさんが、親から聞いた話ということは、少なくとも80年以上前の話なのだろう。


 それだけの年月が過ぎ去っても、賑やかな街に生まれ変わったとしても、怨みや憎しみは、そう簡単には消えないのだと思う。


 そしてその思いが、人ならざるもの達を引き寄せ、人間たちに存在を見せつけようとしているように感じる。


「自分たちの怨みを決して忘れるな」とでも言っているようだ。


 私にしか分からない鼻をつく匂いは、死んでいった動物たちの、呪いの匂い、なのかも知れない———。

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