黒い手 後編
土砂崩れから数日経ったある日。
夜中に胸や腹に激しい痛みを感じて、目が覚めた。すぐに起き上がって確認しようとすると——身体が動かせない。金縛りだ。
——痛い! 苦しい! なんで……。
仰向けになっている身体を、何かが上から突き刺しているように感じる。しかも1ヶ所ではない。数えてみると、6ヶ所も、痛みを感じる場所があるような気がした。
焼けるように痛くて、息ができない。
起きた瞬間から、冷や汗が止まらなかった。
どうにかしたくても、金縛りになっているので身体は動かない。何が起こっているのか分からないので、恐怖で余計に痛みを強く感じているような気もする。
少しでも何か理由が分かるものがないかと、目を閉じて、意識を集中させた。すると、鼻の奥がツンとするような匂いがする。なんとなく覚えがある匂いだ。
——これって、牛小屋の匂い……?
親戚の家には牛小屋があり、そこに行った時と同じ匂いがする。なぜ牛小屋の匂いがするのだろう、と考えを巡らせていると、今度は大きな鼻息のような音が聞こえた。牛が思い切りフンッと、鼻から息を出した音に似ている。
私を苦しめているのは、牛の霊なのか。ただ、部屋の中にいるのが牛の霊だとしても、おかしなことがある。踏み潰される感覚があるのなら理解できるが、鋭いものが6つも突き刺さっている理由が分からない。もし、角で刺されているのなら、2本しかないはずだ。
いくら考えても理由は分からないし、痛みが消えるわけでもない。私はどうすることもできずに、ただ
「うるさいっ!」
と、私の頭を叩いて、また寝てしまった。
妹は、人ならざるもの達の気配を多少は感じるが、視る力はない。異変を知らせるために、助けて! と叫びかったが——結局、痛みが酷くて声が出せなかった。
もう、この状況から抜け出す術がなくなった……。そう思った時、首から上だけを、動かせるようになったことに気が付いた。もしかすると、妹に叩かれたからなのかも知れない。私は頭を精一杯持ち上げて、自分の腹を見た。
——えっ……? なんだ、あれ……。
黒い、大きな手が視えた。
大人の手よりも、何倍も大きな手だ。
猛獣のような、鋭い爪がついている。
6本の大きな爪が、腹に突き刺さっていた。
その手には他の指よりも短い、親指のようなものもあり、片手に計4本の指がついていた。大きな手は床から出ていて、私の身体を地下へ引きずり込もうとしているようだ。しかし生身の人間の身体は、床を通り抜けることはできない。
ただただ、痛いだけだ。
太い腕には、びっしりと焦茶色の毛が生えていて、どう見ても人間の腕ではない。匂いや鼻息、腕の毛は親戚の家で見た牛と似ていて、大きな手や爪は、本などで見る鬼の手にそっくりだ。
しかし、姿が視えたところで、動けない私にはどうすることもできない。大きな爪は身体に食い込み、痛みはどんどん増して行く。もうこのまま腹を切り裂かれて、死ぬのかも知れない。と思い始めた。
爪が刺さっている場所は、ドクドクと脈打つように痛み、呼吸をするのも苦しい。段々と視界が歪み、
その時、パン! と目の前で大きな音がした。驚いて、身体に力が入る。すると、今まで指すら動かせなかった身体が、急に動くようになった。金縛りが解けたのだ。
——この大きな手を、退けないと!
私は自分の腹の方へ手を伸ばした。相手は霊体なので、もしかしたら触れないかも知れないが、これ以上は痛みに耐えられない。そして、手に触れそうになった瞬間——大きな手が私から、すっと離れた。
まるで、触られるのを嫌がっているみたいだ。
そして、また大きな鼻息が聞こえた後、鬼のような大きな手は、そのままゆっくりと、床下へ消えて行った。
いなくなるのを見届けた私は、すぐに起き上がって、腹を確認した。どうやら穴はあいていないようだが、尖ったもので刺したような跡が6ヶ所あり、その内の2ヶ所は血が
その程度で済んでよかった。と思うべきなのかもしれないが、大きな爪で刺されていた痛みと恐怖は、まだ残っている。
——眠ったら、また来るかも知れない。
そう思った私は、布団の上に座ったまま、朝になるのを待った。
夜が明けても、腹には血が滲んでいて、ジクジクと嫌な痛みが続いている。私の家では、心霊的なことを口にしてはいけない、という暗黙のルールがあるが、流石に命の危険を感じた私は、祖父に傷を見せた。
「夜中に、真っ黒い鬼の手みたいなのがきて、爪で刺されたんだけど……。あれは、元は牛だった気がするんだ……。多分、裏山にいる牛たちが怒ってるんだよ。ダメなのは分かってるけど、やっぱり、お墓を作りたい」
祖父は、血が滲んだ私の腹を見ながら、しばらく考え込んでいた。こんな時、母なら「大した事ない」と吐き捨てるが、祖父はちゃんと話を聞いてくれる。祖父も霊感が強い人なので、私がどんな思いで話しているのかが分かるのだろう。
「墓を作るのは難しいが……。お寺さんに来てもらって、お経を唱えてもらおうか」
「お経を唱えてもらったら、あの大きな手は、もう来ない?」
「うーん……。それは分からないが、何もしないよりはマシだろう。それに、山が崩れたのも不吉だからな。お寺さんには来てもらった方がいいだろう」
「うん……」
その後、お寺の住職さんにお経を唱えてもらい、山が崩れた場所には、積み石の塚を作った。住職さんと話し合った結果、やはり不吉な場所なので、荒神様として祀った方がいいだろう、という話になったのだ。
それ以来、あの鬼のような大きな手は、姿を現してはいない。祖父はもう大丈夫だと言っているが——私は、また山が崩れた時にはどうなるのだろう、と不安に駆られることがある。
夜になると、たまに、牛小屋のような匂いを感じることがあるからだ。
山に埋まっている牛たちは、まだこの世を
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