第2部 第1章

第1話 国の終わり

「……惨いものよ……」


 人も、動物も、家屋も、道を阻む物は全て破壊され、命乞いがそのまま断末魔へと変わる。そんな戦場の有様を報告に来た兵士の口から聞かされ、それまで気勢を保ち続けてきた王の口から遂に零れた弱気の言葉であった。


 トラナ公国を象徴する格式高い紺の鎧を纏った齢七十の王は負傷しながらも報告に駆け付けた兵士を労い、直ぐに安全な場所へと避難するよう指示を出す。しかしこの安全な場所というのが最早この領地には存在しなかった。既に城や城下町は帝国の兵士に取り囲まれ、圧倒的な兵力差の前に決死の籠城も風前の灯火。


 反逆者の鎮圧の為に動員された帝国の武力は小国のトラナ公国をいとも容易く呑み込んでいた。


 遠くに聞こえていた戦火の轟がにじり寄る。いつこの王の間に帝国兵が飛び込んできてもおかしくない状況であった。


 最早これまで。トラナ公国の王、リディアム=トラナはある決断を下す。


「ラナド、クルス、我々が追手をくい止めている内に、お前達は残った者を、特に市民を最優先に連れて逃げなさい」


 傍に居た男女二人の兵士は驚きを露にし、クルスと呼ばれた女性が、普段は柔らかく整った黒髪を汗で乱しながら細い目を見開き叫ぶ。


「なりません!我々も戦います!アナタを置いて行ける筈が無い!」


「その通りです!寧ろ、王こそお逃げください!アナタは我ら反乱軍の希望の灯そのもの!その灯が潰えてしまえば、それこそ我らの宿願は果たせません!」


 ラナドと呼ばれた見上げるほどの大男が分厚い鎧の下から咆える。彼等はトラナ公国の従順な兵士であると共に、帝国に反旗を翻すレジスタンスのメンバーでもあった。二人に続き、玉座の守りを固めていた兵士達も真っ先に王を逃がさんと叫ぶ。自らの命を捨ててでも我らが王の命を護る。そんな覇気が彼らの言葉から滲み出ていた。


 彼等の言葉に、トラナ王は満足げに、そして少し寂し気な笑みを零す。


「命令だ。逃げるのだ。生きて、生きて、生き延びて機会を待て。このおいぼれの為に命を無碍にすることは許さぬ」


「ならば共に!」


「できぬ。市民や兵士を見捨ててのうのうと生き延びるわけにはいかぬ。私は一度、帝国に敗れた。そんな無力な王にそれでもついて来てくれた者達に背を向ける事は絶対に出来ぬのだ。解ってくれ、クルス」


「しかし……。しかし……!」


 足が根を張ったように動かない。ここで王を見捨てるぐらいなら死んだ方がマシだ。頑なな覚悟が彼女を蝕んでいた。


 そんなクルスの頬に、王は優しく手を添える。武骨で、皺だらけで、しかし誰よりも優しく温かいその温もりは、彼女の頬を濡らした。


「お前達の忠義、見事な物であった。心から礼を言うぞ。そして、心配するな。希望の灯は消えはしない。お前達が諦めさえしなければ、必ず道は開ける。だから今は生きるのだ。良いな?長生きして、この後何があったのか、冥途の土産に聞かせておくれ」


「……っ!」


 厳格を絵に描いたような王の険しい表情が柔らかく綻ぶ。その皺だらけの優しい笑みは、いつも彼が彼女に、兵士に、そして国民に向けていたものであった。


「急げ!時間が無いぞ!」


「ううう……!王!トラナ王ぅ!」


 泣き叫ぶクルスを抱え隠し通路から抜け出すラナド。他の兵士もそれに続き、玉座の間には王一人を残すのみであった。


 兵達の退避が完了して直ぐ、急に広くなった玉座の間の巨大な扉が勢い良く吹き飛ぶ。


「貴様がトラナ王だな?」


 粉塵の中、翠玉の輝きが揺らめく。現れた男の姿にトラナは我が目を疑った。


「まさか、貴様が直々にやって来るとはな……。光栄だ」


「退屈しのぎに、な。少しは鬱憤を晴らせるかと思ったのだが、かつて武術の粋と謳われたトラナ兵もこの程度か。堕ちたものだ」


 オズガルド第三帝国の長、ソリアは、これから終りゆく王の間を侮蔑の籠った笑みを浮かべ眺める。


「随分と小さな部屋だ。……さて、トラナ王よ。貴様を反逆罪で連行させてもらう。無駄な抵抗大いに結構。せいぜい手足をもぎ取られた虫けらのようにあがくがよい」


「……悪逆非道の権化め。悪魔の化身め。滅びるがよい!」


 磨き抜かれた宝剣を鞘から抜き、あらん限りの憎悪を以てソリアに跳びかかるトラナ王。稚戯に等しい力任せの攻撃がソリアに通用するはずも無く、トラナは呆気なく床を舐めた。


「な、なんの……。まだまだ……」


「……」


 立ち上がる度に身体が破壊されていく。手足はあらぬ方向に曲がり、折れた歯が散らばり、威厳に満ちていた王の姿は見る影も無い。それでも尚、トラナは立ち向かう。


(……後は任せたぞ、若者達よ……)


 数分後、一際大きく、野蛮な歓声がトラナ公国に響く。


 それは紛れもなく、帝国がトラナを完全に屈服させた証明であった。


「……っ!」


 深い森の中を、馬に跨り必死に駆けるクルスの背に、その最悪の報せが届いた。


「……この仇は、必ず。必ず……!!」


 振り返りたい気持ちを、引き返したい思いを必死に抑え込み、彼女はただひたすらに逃げた。


 そしてその日、反乱を企てた罪により帝国に蹂躙し尽くされたトラナ公国は、地図からその名を消すことになったのであった……。

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