第6話 平和故の不安
良い夢を見た。
大勢の美女に囲まれ酒を呷り、絢爛豪華な城で毎日面白おかしく暮らす夢だ。
際どい、それはもう衣服と呼ぶにはいささか露出が多過ぎる布に身を包んだ褐色肌の踊り子達が妖艶な舞いを披露し、傍らで盃に葡萄酒を注ぐエルフの美女はその豊満な胸で腕を挟み甘い吐息を耳に吹きかけてくる。
食事を運んでくる獣人の一人が魚のソテーを歯に挟み、紅潮した頬で恥ずかし気に目を反らしながら口移ししてきた。柔らかな唇の感触が脳髄に駆け巡り、ジルの顔は悦で蕩ける。
(嗚呼……。なんて幸せなんだ……。なんて……)
桃源郷を彷徨うジル。しかし、そんな都合の良い夢心地は文字通り夢で終わる。
「……ジル様……。ジル様……」
「ん、んがっ……?」
微かに身体を揺すられる感覚は、絢爛喧騒を極めていた世界と比べ驚くほど静かな世界へ彼を呼び戻した。
まだ冷めきっていない目を擦り身体を起こすと、フリルの着いたカチューシャを被った可愛らしい従者が半目でジルを見つめていた。
白黒のクラシックなメイド服姿の従者は主人の起床を確認すると満足そうに鼻をすんと鳴らし、まるで人形の飾りのように頭に付いた猫のような耳を忙しなく動かし、スカートの下から伸びた細く艶のある黒い『尻尾』を上品に揺らす。
「お、おう。もう朝か、おはよう……」
桃源郷が夢であったと悟った悲しさに打ちひしがれながら、口元に垂れただらしない欲情の塊を慌てて袖で拭う。まだ年端もいかぬ少女に下品な顔を見せるわけにはいかない。
「今日の目覚まし係はカリナなんだな。ありがとう」
「……」
こくり。と、名を呼ばれた少女は無言で頷く。寝坊助の主人を起こすという大役を果たした小麦色の肌の少女は、室内履きの靴をパタパタと鳴らし部屋を後にした。
ジルの屋敷に新しい奴隷、
「おはよ~う」
「あっ、ジル様!おはようございます!」
無駄に広い台所に洗顔ついでに立ち寄ると、空色の可愛らしいエプロンを身に付けたエルフの美女が柔らかな笑みでジルを迎えた。
朝食を作っている最中だったようで、彼女が手に握るフライパンの上では卵と干し肉が空腹を誘う音を立てていた。
「カリナちゃん、ちゃんとジル様を起こせたんですね!素晴らしいです!」
「……!」
セラの隣で芋の皮剥きを手伝っていたカリナは頭を優しく撫でられ、誇らしそうに息を漏らす。
しかし、手の中の芋は皮どころか身も削られ元々の大きさの半分ぐらいになってしまっていた。これにはセラも苦笑い。
「いただきま~す」「いただきます!」「……ます」
食事は勿論、三人揃って。
「ん、今日の料理も美味しいな」
「ありがとうございます!今日は良い卵を使ってみたんです!」
分かりやすく喜びを顔に浮かべ、今日の朝食にどれだけのこだわりが含まれているかを語るセラ。それを聞きながら小さな塊を口に運んでは何度も咀嚼するジル。
傭兵時代の名残で食事は出来るだけ速やかに済ませていたジルだったが、セラと暮らすようになってからは一口に時間を掛けて食べるようになっていた。
それはセラが作ってくれた食事をしっかりと味わいたいという思いと、そしてもう一つ、なるべくセラと食事を始める時間も、終わらせる時間も一緒にしたいという想いが彼をそうさせていた。
「カリナちゃん、どう?美味しい?」
「……」
返事は無い。が、頭に生えた獣耳が忙しなく動き、尻尾が揺れているのを見ると好意的な回答で間違いないようだ。その反応をジルもセラも暖かな目で眺め、特にセラはその反応が堪らんと言いたげに瞳を輝かせ身悶えしていた。
――そう。獣耳に、尻尾。
カリナは、彼女は獣人であった。
それは三日前、彼女が初めてこの屋敷にやって来た日、弱り、汚れ、疲れ切ったカリナをセラが風呂に入れていた時に判明した。
カリナは人間の血が濃いタイプの獣人で、耳と尻尾以外の外見は普通の人間であった。今まで自分が獣人であるということを隠していたようで、だからこそ奴隷商人にも人間として扱われていた。
しかし、久々に湯舟に浸かり気が抜けたせいか、気付けばひょっこりと獣の部分が現れていた。
獣人は高値で取引される。特にそれが若い女なら尚更だ。故に、彼女は両親から耳と尻尾を隠すようにと常日頃から言われ続けていた。
「……!」
慌てて耳と尻尾を隠すが、その様子を見たセラは柔らかく微笑み「可愛いですね」と屈託の無い笑みでそう告げた。その後に、ここは安全だから隠さないでも大丈夫。と付け足した。
カリナの境遇を察してのセラの言葉だったが、その時点では信用出来なかった。ここはあのレッドデビルの居城。安全どころか世界で一番危険な場所ではないのか、そう怯えていたカリナだった。
しかし、風呂から上がった後にジルとセラに部屋を案内され、この屋敷で暮らす上でのルールを聞き、そして自分の立場を教えられることで、セラの言葉が偽りでない事が多少なりと理解出来た。
それはそう、セラが初めてこの屋敷を訪れた日のように。
「さて!今日も張り切ってお仕事しましょうか!」
「……!」
初夏の晴天下。メイド服姿のセラとカリナは澄んだ水飛沫が拭き上がる噴水を前に、バケツと柄杓を手に気概を露にしていた。
食事を終えた二人は外出するジルを見送った後、早速奴隷としての仕事に取り掛かっていた。
最初こそ右も左も分からないカリナであったが、セラの教え方が上手かったことに加えカリナ自身も料理以外に関しては呑み込みが早かったため、今ではセラに負けない作業スピードを披露している。
「カリナちゃん!良くできました!もうすっかり一人前ですね!」
「……」
獣耳を生やした少女の頭を撫でる時のセラの恍惚とした表情。それははたしてどちらに対してのご褒美なのか分かったものではない。
可愛い物好きなセラにとってカリナという存在はまるで精霊のような、妖精のような、天使のような、ありとあらゆる尊さが詰まった存在であった。
そしてそれはカリナにとってのセラも同じようなもので、今まで見た事も無い美貌に包容力のある言葉と仕草、そして柔和な性格。戦争で母を失った彼女にとって、セラは母の温もりを思い出させてくれる尊い存在であった。
要するに、ジルの心配を余所に二人は上手くやっていた。
「ただいま~……」
一日の仕事が殆ど終わり、陽も大地に身を隠そうかという時分。
用事を済ませ帰って来た鎧姿のジルを待ち受けていたのは、美味しそうな夕食の香り。それに混じって獣耳を晒した少女が小走りで主人を出迎えにやって来た。
「……さい……」
両手をスカートの裾に合わせぺこりと下げた頭の上にジルの大きな手が被さる。それは鎧であった筈なのだが、何故かとても柔らかく、そして温もりを感じた。
「はいよ、ただいま。今日は暑かったみたいだけど、二人とも大丈夫だった?」
「……!」
ジルの問いに、カリナはふんすと息を吐き両手を胸の前で合わせる。その返事にジルは満足そうに頷いた。
鎧を脱いだジルは浴場で汗まみれの身体を洗い、濡れた頭をタオルで拭きながら素の姿で二人の前に現れる。
三人揃ったところで夕食を済ませると、ジルは二人に労いの言葉を掛け自室に向かった。
セラはまだこの後に一日の最後の仕事が残っているが、カリナはもう自由時間。屋敷の敷地内から一人で出るという行為以外はあらゆることが許されていた。
カリナは浴場に駆けるセラを見送った後、取り敢えず自分の部屋に戻る。彼女の部屋はセラの部屋の隣だった。
自室の扉を開くと荘厳な屋敷の空気が一変し、彼女ぐらいの年頃の娘が好きそうな可愛らしい色合いと形の家具が取り揃えられたファンシーな空間へと早変わりする。
「……」
カリナは薄い桃色の寝間着に着替えると、多種多様な魔獣のぬいぐるみが敷き詰められたベッドに背中から寝転がった。彼女の軽い身体が羽毛のように柔らかいクッションに沈む。
産まれてこの方、こんな贅沢なベッドで寝たことは無かった。部屋もそう。ここまで可愛くて素敵な部屋で過ごしたことは無かった。
美味しい食事に素敵な同居人に快適な住まい。驚くべきことに、こんな暮らしをしている彼女の身分は『奴隷』なのである。
それ故に不安であった。奴隷という身分にありながらここまで贅沢な暮らしが出来ている、出来てしまっている現状が逆に恐ろしかった。
もしかしたら、こういう趣向なのかもしれない。相手を油断させ、幸せと思い込ませておいて絶望に叩き落す。そんな事は平気でやるだろう、あのレッドデビルなら……。
「……!」
ふと、上機嫌そうな足音が部屋の外から聞こえた。
恐らくは風呂上がりのセラだろう。深い森林の奥で耳にする小鳥のさえずりのように澄んだ鼻歌も聞こえる。
思い立ったカリナはそろそろと部屋から出ると、セラが居るであろう部屋を静かにノックした。
「あ、はい!どうぞ!」
「……」
「あら、カリナちゃん、いらっしゃい!ちょっと待ってくださいね?今、お紅茶淹れますから」
やはり風呂上がりだったようだ。彼女の美しい金の長髪は珠のような水滴が残っており、その輝きと艶を増している。白い肌はほんのりと紅潮し、その表情は若干ふやけていた。
セラは風呂上がりに楽しむ為に用意しておいた湯をティーポットに注ぎ、小さな丸いテーブルの上にクッキーと一緒に並べる。
紅茶の甘い香りが少しだけ少女の心の時化を落ち着かせた。
「カリナちゃんが遊びに来てくれて嬉しいです!貴女の部屋と違ってあまり可愛くない部屋かもですが、のんびりしていって下さい♪」
可愛くない。その謙遜をカリナは首を横に振る。自然の中で過ごしてきた彼女にとってこの部屋は寧ろ落ち着きを感じた。
「フフ……。この部屋も、ジル様が苦心して用意してくれたんです。カリナちゃんの部屋もそうなんですよ?貴女の年頃の女の子は何が好きだろうかってしつこく私に聞いてきてましたから……」
無邪気な笑みを浮かべつつ、セラは紅茶を啜る。が、熱かったのか直ぐに口を離し舌を出した。
「大人ぶるものではないですね……。冷ましましょっか」
カリナはセラのこの雰囲気が好きだった。近寄り難い美貌と輝きを放っているのに、いざ話してみると物腰柔らかで偶に可愛らしくお茶目なのだ。少女にとってセラは完璧過ぎる女性であった。
「それで、何かお話があるのですか?先程から、耳がしきりにぴくぴくしてますが……」
「……っ」
頬に手を当て、うっとりとカリナの獣耳を眺めるセラに気付き耳を引っ込めるが、セラの残念そうな表情を見て慌てて引っ張り出した。
「大丈夫。ジル様には内緒にしておきますから。ね?」
「……」
嗚呼、どうして彼女の『大丈夫』という言葉はここまで心に染み入るのだろうか。
カリナは断片的に話し出す。時に言葉に詰まりながら、時に言い直しながら。そしてセラは優しい笑みを浮かべたままそれを黙って聞いていた。
カリナが吐露したもの、それは、以前セラが抱いていたのと同じ『不安』であった。
「……なるほど。普通はやっぱり、そう思いますよね。ましてや主人はあのレッドデビルですから。噂も色々聞いている事でしょうし、怯えるのは当然の事です」
でも、と、セラは続ける。そして紡いだのは、あの日の出来事。あの夜に、ジルに聞かされた言葉。
結局彼は自分に手を出さなかっただけでなく、拘束具まで外し、そして自分の大半の自由を許してくれるという彼の優しさと思いやりを普段の生活を交えて説いた。
「奴隷と言えば、世間一般的には酷い扱いを受けるイメージがありますが……。どうもここの御主人様はそういうのはお嫌いらしいんです。それは、この三日間でカリナちゃんも分かってきてるとは思いますが……」
「……」
「変な人でしょう?あの人。ああいう人なんですよ。優しくて、紳士で、そして、可愛い人」
「……かわいい?」
「そう。結構可愛いところもあるんですよ?おっちょこちょいだったり、ちょっと怒ったら分かりやすく落ち込んだり、一緒にお風呂に入ったら真っ赤になって恥ずかしがったり……」
自分で言っていて思い出してしまったのか、すっかり熱の引いた身体に再び赤みが差す。
「ん……。こほん!兎も角ですね!あの人は良い人です!怖くないですよ!」
その笑顔はカリナの中で渦巻いていた不安を完全にとは言えないが浄化してくれた。まだジルを信用したわけではないが、彼女が今最も信用できる者の言葉だからこそだった。
「……わ、私も、まさか、救いを求めた人が、レッドデビル……だとは思わなかったです……」
「フフ、そうですね。最初は助けてもらって良かったのか悪かったのか分からなかったでしょうね!」
セラの笑い声につられ、カリナも仄かに微笑む。
「ここに居るの、嫌ですか?」
不意に、セラが寂しそうに眉を垂らし問い掛ける。
カリナは静かに首を横に振った。そして告げる。自分にはもう帰るところが無いのだと。そして恐らく、現状でここ以上に良い居場所は無いと。
それを聞いたセラは「私と同じですね」と微笑みながら、しかし少しだけ寂しそうに呟いた。
「私も、戦争で住む所を無くして、身寄りも無くて、一人ぼっちで……。ここにしか居場所が無いんですよね」
「そう……なんですね……」
「そう。それで、ジル様が出かけてるときはこの広い屋敷に一人でしょう?そんな時はとても寂しかったんですが、カリナちゃんが来てくれて本当に嬉しかったんですよ?だから、ここが嫌って言われなくて本当に良かったです」
「セラさん……」
「それに、ね。私、妹が出来たみたいで嬉しいんです。だから、何でも頼ってくださいね!魔法は、今はまだちょっと使えませんが……」
申し訳なさそうに眉を垂らすセラを前に、カリナはすっかり艶を取り戻した黒い髪を左右に揺らす。
「わ!私も……。私もお姉ちゃんが出来たみたいで……。その……、嬉しい、です……。ハーレムとかはよく分からないけど……。でも、セラさんとは一緒に居たい、です……」
「……っ!カリナちゃん……!」
その後、無事意思疎通を果たした二人は台所からお菓子を補充すると、夜遅くまで女子会に没頭するであった。
――――――――――
「カリナちゃん!お皿出してきて!」
「は、はい!もう出してます!」
「偉いです!流石です!」
「えへへ……」
今までにない溌溂とした従者達のやり取りに、ジルは新聞から顔を上げ、食事の準備をしている二人に目を配る。
「今日も美味しくできました♪」
「さすが、セラさん……!」
「カリナちゃんのお手伝いのおかげです!」
愉しそうに料理を運びながら、セラとカリナは顔を見合わせ微笑む。その様子に、ジルは眉間を狭めた。
「……お二人さん?何かやけに仲がよろしいですな?」
「ええ!そうなんです!とっても仲良しなんですよ!ね、カリナちゃん?」
「は、はい。仲良し、です……」
「……あぁ、そう。それは良い事だ。実に良い事だネ……」
堅い笑みを浮かべ、再び新聞に視線を落とすジル。
主人なのに何故か疎外感を感じる、寂しい朝であった。
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