第8話 とあるサキュバスの想い③

「あ~…………」


 茹るような熱帯夜。沸かす機会も少なくなった風呂場にて屋敷の主人の老けた声が響く。浴槽に水は張られているが湯気は立っておらず、中身は外気で程良く温まった冷水である。


「ふぅん……」


 今日も今日とて破損した屋敷の修繕と野菜作りに精を出した。蓄積された疲労と塗りたくられたような汗が染みだしていくような感覚に、ジルは一糸纏わぬ身体を大の字に開き快楽を享受する。


 既に従者には先に水浴びを済まさせており、今宵は一人でこの広い浴場を満喫していた。疲労も取れ興が乗り、子供の様に泳ぎ始めたところで静かに浴場の扉が開く。


 現れたのはバスタオルに身を包んだククルであった。


「がぼばべっ!?」


 大きな水音が立つ。ジルは慌てて首まで浸かり手で大事なところを隠すが、割と手遅れであった。ククルは細い視線で全裸の主人を一瞥するだけで特に感情は示さない。流石はサキュバスと言ったところか。


 バスタオルで身体を隠してはいるが身体の曲線美と張りが強調され寧ろ余計に煽情的であり、その薄い布切れ一枚の下に対するあられもない妄想がジルの頭の中で煮え滾る。微かな汗で照らされた淫靡な太ももにジルは生唾を呑んだ。


 ここまで薄着のククルの姿を見るのは初めてであったが、ジルにとってその姿はあまりにも暴力的過ぎた。外見もそうだが彼女が元々放つ色香がこの状況も相まって強烈に臭い立つ。


 今すぐこの場から逃げ出したくなる衝動に駆られるが、残念ながら今の彼は男の事情により立ち上がることが出来なかった。


「な、ど、どしてたなのね?」


 動揺塗れの主人を前に翠髪の美女は面倒くさそうに溜息を漏らすと、洗い場へ出てくるよう顎で促した。小刻みに首を左右に振る主人の耳に大きな舌打ちが届く。


「身体を洗ってやるって言ってんのよ。さっさと出てこい」


「え!?いや、それは、嬉しいんだけど、その……」


 まるで初心な生娘のようにもじもじと恥じらいを見せる男の姿に苛立ちを募らせたククルは強い足取りで浴槽へと歩み寄る。一瞬、彼女が滑って転ばないか気を揉んだジルであったが、見上げた先に広がる絶景を前に浸かっている冷水が湯に変わりそうな勢いで顔を茹らせた。


「うじうじしてんじゃないわよ。アンタ、それでも男なの?○○○付いてんの?」


「ヒイィ……」


 シンプルに下品な言葉だが、今のジルにはあまりにも淫靡な殺し文句に聞こえた。


 しかし、彼女が好意的な態度を示してくれているのは事実であり、その厚意に応えねばならないという気持ちがジルにもあった。


「何?もしかしてアンタ、私に身体を洗われるのがイヤなの?だったら出ていくけど」


「そんな事は……!!」


 ……あ。と、ジルが声を漏らした時には既に身体は反射的に立ち上がっていた。ククルの夜の様に暗く深い瞳にはっきりとが映る。自身に向けられた雄としての欲を前に彼女は呆れたように鼻息を漏らすが、その口元はほんの僅かに上がっていた。


「ホラ、さっさと座りなさいよ」


「……ハイ」


 観念したジルは体の一部を手で隠しながら、彼女に背を向けるように椅子へと腰を下ろした。


 ――――


 隠している方が意外と恥ずかしい。艶めかしい体躯にバスタオルを巻き付けながらサキュバスの美女は思う。これまで多くの男達に晒してきた過去もある故か、彼女にとっては全裸の方が気持ち的には楽だった。見られないように隠していることが寧ろ意識しているようで何となくむず痒い。


 何故こんなにも動悸が激しくなるのか。この姿になって初めて晒す全裸に近い姿だからか、それとも相手があの男だからか。纏まらない思考に決着がつかぬままククルは風呂場への扉を開いた。


 ――ひと悶着あったが、何とか主人を目の前に座らせることに成功したククル。今まで見てきた男達のそれとはまるで違う屈強な体躯に、美術品を前にしているような感動を仄かに覚える。


 とても大きな背であった。盛り上がった筋肉と引き締まった身体は一瞬畏怖を抱くが、これがあのジルの身体であるという認識が加わると途端に頼もしさと温もりを感じる。


「……あの~?」


 男の声にハッと我に返り首を振る。見惚れていた自分に苛立ち歯噛みすると、ククルは身に着けていたタオルを数回畳んで足下に置き、そこに膝を着く。足裏に掛かった長髪の毛先を鬱陶し気に払いのけると、目の粗いタオルに石鹸を塗りたくり、大きな背中に無造作に押し付けた。


「ひゃんっ!」


「!」


 とても男の口から漏れたものとは思えない嬌声にククルの肩が跳ねる。反射的に放たれた彼女の平手がジルの背に放たれ、快音が響いた。


「す、すいません……」


「……」


 くっきりと赤い手形が付いた背を再び擦り出す。今度はジルも声を上げず、黙って彼女の奉仕を受けた。


 静寂の中、布と硬い皮膚が擦れ合う音がやけに大きく聞こえる。手に伝わる骨格と筋肉の段差の感触がククルに男を感じさせた。


「腕」


「あ、はい」


 ようやく落ち着きを取り戻したジルは促されるまま右手を水平に上げる。ククルがそこにタオルと手を這わせると、ジルはくすぐったそうに身を捩った。


 右腕を擦っている最中、時折ククルの手が止まる。そして何度も確かめるように指先を腕に這わせた。それは、ジルが過去の戦いで追った数多くの負傷の痕の一つであった。まだ治って間も無さそうな傷もあるが、それが先のバラドとの戦いで負ったものと悟るのに時間は要さなかった。


 左腕も、同様であった。


 両腕を洗い終えたククルは暫し手を止める。そして何を思ったか、彼の背に巨大な胸を押し当て、腰に手を回す。


「……っ!?」


 背に広がる柔らかさと僅かな突起、そして腹を撫でる細い指先の感覚に男の背は瞬時に硬直した。そして、熱の籠った身体を押し当てながら、彼女は火照った男の耳元で小さく呟いた。




「……ありがと」




 ……と。


 それを伝えたいが為に、彼女はここに来た。わざとこのような状況を選んだのは、彼女なりの照れ隠しだったのだろう。


 これまでに彼が自分に向けてくれた気持ち、そして自分の為にしてくれたこと、そして自分の気持ちを裏切らなかったこと。平和で穏やかな日常へ連れ出してくれたこと。それらに対する彼女の想い。


 シンプルではあったが、彼女の万感のであった。


 漸く素直な言葉を伝えられたことに満足し、糸が切れたように身体をジルに預ける。しばらくの間彼の身体の温もりを味わうククルであったが、ふと、異変に気付いた。


 あまりにも静か過ぎる。堅い腹の上を指先でなぞるが男からの反応は一切無い。


「……」


 ククルの顔から一気に熱が引き、表情は影を見せる。脇から顔を覗き込むと、爽やかな微笑みを湛えたまま意識を失った男の横顔が。


「………………」


 ククルは黙って手を振り翳し、魔力を籠め、振り下ろす。


 先程以上の快音が、浴場に響き渡るのであった……。






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