第9話 どこまでも

「失礼します」


 小さなノックの後、背後の扉が静かに開いた。部屋の主はギルドの資料を整理していた手を止め、振り返る。すっかり着慣れたメイド服姿のエルフにジルの頬が緩んだ。


 セラは微かに首を傾げ柔らかく微笑むと、黄金の長髪を優雅に靡かせながらテーブルに茶器とクッキーの乗った皿を並べる。


「傷の具合は如何ですか?」


「うん、もうすっかり治ったよ。今すぐにでもバラドをぶん殴りに行けそうだ」


 まぁ!と困ったような笑みを浮かべながら赤色の果汁を冷えたグラスに注ぐ。グラスはセラの魔法により凍結させられており、果汁が流れ込むとぱきぱきと小気味良い音が耳をくすぐった。


 彼女の魔法のおかげで蒸し暑かった部屋もすっかり涼しくなり、汗で濡れた衣服が冷気を帯びる。彼女の魔法はこの夏に大変な活躍を見せてくれていた。最近では涼を取る為にセラの居る部屋に皆で集まる事も少なくない。


「今日はモロロの実とパメの実をミックスしてみました。召し上がってください」


「うん。ありがとう」


 セラが席に着くまで待ち、そして一緒にグラスに口を付けた。鼻を通り抜ける一瞬の爽快感の後、舌と喉に刺すような冷気が伝わり、最後には蕩けるような甘みが口内に充満する。


「うん、美味しい」


「ふふ、良かったです」


 満足気に頷く主人を前に、セラは胸の前で両手を合わせ喜んだ。


 ――二人だけの夜の茶会は、今日も静かに幕を開ける。


 時にはジルが冒険譚を、時にはセラが他愛無い雑談を、そして時にはお互い黙ってこの茶会を愉しんでいた。二人きりのこの時間はカリナやククルが屋敷にやって来てからも変わらず設けられていた。


「それにしてもあの医者は本当に良い腕だ……。出来ればウチの専属にしたいぐらいだね」


 帝国軍に従事する医師、オラルに対する惜しみない賛辞の言葉にセラも大きく同意する。


「凄いですよね、あの人の回復魔法。私もああいう魔法が使えるようになればもっとジル様のお役に立てると思うのですが……」


「いやいや、今のままでも十分過ぎる程助けてもらってるよ」


 武骨な指でクッキーを摘まみ、ろくに咀嚼せず喉に押し込むジル。


「ジル様、最近髪が伸びてませんか?目が隠れそうですよ?」


「あ、そう言えば。明日にでも切っておくよ」


 今にも目を覆いそうな前髪を悩まし気に指先で弄るジル。


「いっそのこともっと伸ばしてみてはどうですか?髪の長いジル様も見てみたいです」


 例の貴族服に身を包んだ長髪のジルを想像し両手を頬に当て恍惚を顔に浮かべるセラであったが、主人の表情は冴えない。


「長いと手入れが面倒くさくてさ……。いっそのこと、丸坊主にしてみようかなとも思ったりするんだよね」


「それは絶対にダメです!!!似合わないと思います!!!!」


「そう?そこまで言うなら……」


 食い入るような気迫から逃げるように顔半分をグラスで隠すジル。彼の散髪は明日の午前にセラが執り行う事となった。


「あ、そうそう。屋敷の修繕工事ね、アレ、明後日から始まるみたいだから。なるべく邪魔にならないように気を付けてね」


「あぁ!やっとなんですね!随分時間が掛かりましたね……」


「最近どこも忙しくて職人が足りてないみたい。何にせよ、これで屋敷も庭も元通りになるね」


 一応、ジル達も出来る限りの修繕は行ったのだが所詮は素人の日曜大工。完璧に直すにはどうしてもプロに頼るしかなかった。


「いやはや本当に申し訳ない。思った以上に戦いが激しくなっちゃってさ」


「いえいえそんな!全く気にしてませんよ!ジル様が無事なら屋敷なんてどうでも良いですから!」


 それもどうなのだろうかとぎこちなく破顔する屋敷の主であったが、彼女の自分を想う言葉は素直に嬉しかった。


「はい」


「ん。ありがとう」


 主人から差し出された空のグラスにジュースを注ぐ。その手つきは慣れたもので、何十年と寄り添った熟練の侍女を想わせる。彼女はこの時間がとても幸せだった。彼を独占できるこの時間が何よりも心に安寧をもたらしていた。


 しかし今宵、その幸福に微かな波紋が生じる。


 それは、ジルがいつものように切り出した何気無い会話から始まった。


「そう言えば。さっき水浴びから帰ったらこんなチラシが机の上に置いてあったんだよ」


 自分のデスクの上から一枚のチラシを手に取り、セラの前に置く。それは見覚えのある楽団の宣伝であった。


「これは……。この間ジル様が呼んだ楽団の……?」


「そうそう。多分ククルが置いたんだろうね。また呼べって事なんだろう。屋敷の修理が終わったら、今度はもっと派手なパーティーでも開こうかな?豪華な料理も用意して。せっかくだからパーティー用のドレスでも買ってこようか」


 ククルの素直じゃないオネダリに対し嬉しそうに提案する主人であったが、セラの瞼は不機嫌そうに下がる。おや?と思いながらもジルは会話を続けた。


「いやはや、ククルもすっかり我が家の一員だね。彼女を迎え入れて本当に良かったよ」


「凄く綺麗な人ですもんね。とっても美人でお胸も大きいですもんね」


「え?いや、そりゃあ……まぁ……」


 普段はお淑やかなセラのぶっきらぼうな言葉にジルの背筋が固まる。


「キスもしてましたもんね」


「え!?い、いや、アレはそういうのじゃ……!べ、別にそんな特別な事じゃないよ?」


「そうですよね〜。何も特別な事ではないですよね〜。別に私もやろうと思えば出来ますからね~」


「えっ!?」


 顔に張り付いた涼やかな笑みから放たれた投げやりな言葉にジルは勢い良く顔を上げた。


「どうです?試してみます?私の魔力の口移し」


 瑞々しい唇から小さく除く潤った舌先。まるでどこかのサキュバスのように意地悪く微笑んで見せる彼女の姿にジルの頭はいとも容易く沸騰した。もしかすると、セラはククルに嫉妬しているのではないか。そんな可能性に童貞の心は歓声を上げる。


 だが待てと。今にも駆け出しそうな情熱にストップをかける声が心の中に響いた。本当にこんなシチュエーションでキスをしてしまっても良いものだろうか。もっと劇的で感動的でロマンチックな状況で成すべき事ではないのだろうか。そんな童帝臭い配慮が彼の衝動を抑え込んでいた。


 中腰のまま永遠とも思える熟考の後、彼が絞り出した答えは、


「いずれまたその機会があれば……」


 であった。


 心の中で血の涙を流しながらゆっくりと椅子に腰を下ろす主人に向け、眉を垂らしどこか寂しそうな、しかしどこか嬉しそうな複雑な笑みを浮かべるエルフの侍女。


(まぁ……そうくるとは予想してましたけどね)


 彼が自分の申し出を断った理由は大体察しが付いていた。だからこそ、セラは嬉しそうにはにかんだ。自分を、自分との経験をまるで宝石のように大事に扱ってくれようとする主人の想いがとても嬉しかった。


 ただ、大事にされ過ぎてあまりにも手を出して貰えないのも考えものであったが。


「フフ、冗談ですよ。ジル様はすぐに引っ掛かるんですから」


「お……!な、何だよ〜。驚かせないでよ〜!」


「そのような事では奴隷ハーレムの主としてまだまだですよ?もっと女性に対し余裕をもって接する事ができるようにならないとです」


「む。なるほど……。それは一理ある……。為になったよ。ご教授助かります」


「いえいえ」


 と、あたかも主人の野望の為に一役買ったような言い方をしているセラであったが、実際のところ、彼女はジルにどうしようもないぐらい惚れていた。


 立場が奴隷である以上その想いを伝えることなどできない。しかし、立場が奴隷である以上何をされても全て喜んで受け入れるつもりであった。


 つまりまたあの時の、初めて彼女がこの屋敷にやってきた時のような夜伽を求められれば応える覚悟はできていた。


 独り占めしようとは思っていない。カリナにとってもククルにとっても彼はとても大切な存在だから。だが、彼の一番でありたいという気持ちは常に心の奥底にあった。


「まだまだ道程は長いね。これからもよろしく頼むよ」


「もちろんです。どこまでもお供しますよ」


 グラスを合わせ、お互いに微笑み合う。


 こうして夜中に二人で話せる特別な時間がある。それだけでも、彼女の心は充分に満たされていた。














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