第5話 その唇は柔らかく

 薄い雲で空が覆われた昼下がり。


 心なしか静かになった世界の下、とある大きな屋敷の一室では黒板を叩くチョークの音が響いていた。


 その部屋はまるで学校の教室のように改装されており、正面には壁一面の巨大な黒板、そしてその前には四つの長机が並べられており、その内の一つにジル、カリナ、そしてナナが座っていた。


「リアナ金貨はクレド銅貨の約二百枚分の価値があると言われています。極北発祥のターナ銀貨はクレド銅貨約五十枚分と言われています。では、リアナ金貨はターナ銀貨の何枚分の価値があるでしょうか?」


 黒板の前で教鞭を握るのは黒縁の伊達眼鏡を掛けたポニーテール姿のセラである。その服装はいつものメイド服ではなく、胸元の小さなリボンが可愛らしいシンプルで落ち着いた色合いのワンピースであった。


 セラの問いに、彼女の講義を傍聴していた二人と一匹は手元に置かれた小さな黒板に各自数字を記入していく。先ずカリナが、次いでナナが、そして出遅れてジルが答えを書き終えた。セラの合図で全員がそれをオープンし彼女に答えを見せる。ナナとカリナの回答が「4」。ジルが「8」であった。


「ナナちゃんとカリナちゃんは正解です!ジル様は残念ながら間違いですね……」


「え?マジで?」


 この中で言えば一番勉強が出来そうな風体をしている青年が目を丸くして驚く。黒板に描かれたセラの図示した問題と自分の回答を何度も見比べるが眉間の谷が深くなるばかり。


『カフフ……』


 隣の席ではナナが明らか悪意に満ちた笑い声を漏らしジルを横目でねめつけていた。ドラゴン以下の頭の出来をバカにされた男のこめかみの血管はセラからでも容易に目視できるほど浮き上がり、無礼なペットを睨む目は怒りと羞恥で血走っていた。


「じ、ジル様……。凄い顔……」


 カリナの怯えた声で我に返ったジルは一度顔を撫でると、再びいつもの飄々とした表情へと戻った。粉々に砕けた手元の黒板は元には戻らなかったが。


「こほん……。良いですか?ジル様。まずターナ銀貨が……」


 今の問題の解説を始めるセラ。御覧のように、この屋敷の生活の中で新たに「勉強」の時間が組み込まれていた。


 発案者はジル。以前セラがカリナに魔法や勉学を教えているのを聞いた時、もっと勉強するのに適した環境があればと思った故。また、セラが教師の夢を断念していたのを聞きその夢をなるべく近い形で叶えてやりたいという想いからこの部屋と時間を設けた。


 ジル自身も浅学である為この機会に自分も色々教えてもらおうとセラの授業に参加しているのだが、悲しい事に未だ算数の知識はナナ以下である。


「ふぃ~……。頭から火が出そうだ……」


 本日の授業を終えたジルが机に顔を突っ伏せる。頭から湯気が立ち込めている様子が容易に想像できるまでに彼は焦燥し切っていた。


「でも最初の頃に比べればジル様も随分ご成長為されましたよ?この調子でファイトです!」


「う、うん……。頑張る……」


 誉めて伸ばすタイプのセラの言葉に甘える主人の横を、ナナが脇に黒板を抱え颯爽と二足歩行で通り抜けて行く。その立ち振る舞いは理性と知性を感じさせ人間のそれとなんら遜色無い。部屋から出て行くナナの背中を再び人には見せられないような顔で睨む主人の頭をセラは優しく撫でた。


 ―――――


 その日の夜。


「失礼します」


 セラが紅茶とお菓子を手にジルの部屋を訪れると、彼は机に向かい頭を抱えていた。クエストの事だろうか、それとも新たに迎え入れようとする奴隷の選考に悩んでいるのだろうか。夜食を乗せた盆を机に置くついでに彼の手元を覗いてみると、そこには新調した黒板が。


 昼間の問題の数式が書かれていた。どうやら復習しているらしい。その様子にセラはつい微笑みを漏らす。


「どうです?だいぶ分かってきました?」


「う~ん……。何となく……」


「では次は別の貨幣で同じ問題をやってみましょうか」


「いや!大丈夫!今日はこれだけでいい!」


 子供の様に嫌がる主人の姿に口を手で覆い笑みを零す。子ども扱いされたのに勘付いたか、ジルは頬を赤らめ口を尖らせながら黒板の文字を布で拭き取ると運ばれた紅茶を音を立てて啜った。


 盆の上にはポットともう一つ空のカップが有り、ジルはそのカップに自ら紅茶を注ぎセラに促す。セラは誘われるがままカップを手に取ると傍にあった椅子に腰掛け喉を潤した。


 気分を変える為に窓を開けると心地良い夜風が二人の時間を祝福するかのように部屋を撫でる。


「やれやれ、勉強というものがここまで大変だとは思ってもみなかったよ。いつか頭が膨張して破裂してしまわないか心配だ」


「フフ……それは困りますね。私も張り切りすぎたかもしれません」


 少し照れくさそうにカップで口元を隠す。ジルの予想以上にセラは人に何かを教えられる事を喜んでいた。次の日の授業は何にしようかと毎晩のように胸を高鳴らせ、彼が用意した伊達眼鏡と教鞭も嬉々として使用し、教師としての時間を堪能していた。


「何から何まで本当にありがとうございます。夢まで叶えていただけて……。心から感謝申し上げます」


「そんな大袈裟な事はしてないよ。まぁ、その代わりと言っては何だけどカリナにしっかり勉強を教えてあげてね。きっと将来何かの役に立つだろうから」


「はい。私に教えられる事は全て教えるつもりです。カリナちゃんがそれを望むのなら、ですが」


「それは大丈夫だよ。あの子には貪欲に学ぼうとする意志がある。勉強もとても楽しそうだしね。多分、あの子も俺と同じで学校に行けなかったんだろうな。だから勉強に飢えてるんだと思う」


 貧しい者が学校に行けないという事態はこの大陸では決して珍しい事では無かった。貧しい者は生きる為に危険な仕事をこなすか、奴隷として身売りするか、はたまた死か。


 持たざる者にとって厳しい時代であり、教育を受けられるのは裕福な家庭で育った者や福祉の充実した国に産まれた者に限られていた。カリナも生家は貧しかったため十分な教育を受けられていなかった。


「俺も昔から戦う事しかしてこなかったからなぁ……。勉強なんて考えてる暇も無かったよ」


「そう言えばジル様は何時から傭兵になられたのですか?」


 その問いに、ジルは悩まし気に喉を鳴らし答える。


「十四歳の頃だね。尤も、戦争に参加していたのはそれより前なんだけどね。戦争孤児の少年兵だったんだよ、俺」


「え……」


 セラのカップを持つ手が止まる。聞かない方が良かったのだろうか。そんな困惑に対しジルは陽気な笑みで応えた。


「よくある事さ、戦争孤児が戦地に送られる事なんて。俺はガキの頃に両親を戦争で失って、預けられた孤児院で武器の使い方や人の殺し方を学んだ。時には魔獣の軍団の気を惹く囮にされたり要人の盾にされたりもしたな。今にしてみれば良く生き残れたと思うよ。孤児院に居た他の仲間は全員が死んだか行方不明だ」


 でも。と、ジルは続ける。


「今となっては良い思い出だ。俺は過去を呪ってはいないよ。あの苦労があったからこそ今こうして力を得ている。今こうしてキミと話す事が出来ている。結果論に過ぎないけれども、でも世の中結果が全てだ。そうだろう?」


「……そうですね。過去より今が大事ですよね!今と、そして未来が幸せなら問題無いと思います!」


「だろ?でも、そうか、未来も大事だな……」


 ふと、ジルは手元の黒板に目を向ける。


「そう言えばセラ。前に学校の先生になりたいと言っていたね?」


「え?あ、はい。確かに……。しかし今はジル様に仕える身ですので……」


「証書は破り捨てただろ?辞めたかったら何時でも好きにしていいんだよ?」


「……ジル様……。そんなに私がお嫌いですか?そんなに私にこの屋敷から出て行って欲しいんですか?」


「え?あ、いや、そういうわけじゃなくてだね……」


 じっとりとした目で睨まれ目線を泳がせるジル。困ったように取り繕うとする主人を前にセラは膨らませた頬の空気を吐き出し小さく笑った。


「冗談です。ジル様が私の事を想ってそう言ってくださっているのは重々承知してます。でも、それでも、ジル様のお世話をするのは今の私にとって生き甲斐なんです。だからここを出て行くつもりは全くありません。それに、もう夢は叶えてもらってます。あんな素敵な部屋まで作っていただいて、私は果報者です」


「あんなので満足してもらえてるなら俺も嬉しいよ。新しい奴隷が入って来たらどんどん教室も賑やかになるだろうしね!」


 さり気なく放たれたその言葉にセラの眉が仄かに動く。そして、淀みの無い鮮やかな蒼の瞳をジルに向け、問う。


「新しい奴隷の方が来られるんですか?」


「ん?んん……。ん~……。た、多分……?」


 分かりやすく視線を明後日の方角に向け、煮え切らないその返答に、セラは堪らず吹き出してしまう。


「前にも言いましたけど、私達は新しい奴隷が増える事には大賛成ですよ?そもそも、奴隷を買うも買わないもジル様の自由であって私達が口出しする事ではありませんし」


「いや、それはそうなんだけどさ……」


 歯切れの悪い主人を見かねたセラは困ったように眉を顰め、告げる。


「ジル様が私の事を何より大事に、それこそ命懸けで想ってくださっている事は分かってますから、安心してください」


 その言葉にジルは顔を上げ、セラを見詰める。彼女は少し首を引っ込めながらも小さく頷いた。


「私にとっても、ジル様が何より大切、です……」


 それは決してお世辞などではなく彼女にとっての確信。日々の暮らしの中でもそれは感じられるが、特に単身で帝国に乗り込み命をなげうってまで自分を救い出したこの男の自分に対する想いを見誤る筈も無かった。


 あの時、城壁に到達し自分の前に姿を現したジルの勇士は今でもまざまざと思い出すことができ、脳裏に映し出す度に頬が熱くなる。


 要するに、セラも彼に惚れてしまっているのだ。どうしようもなく。奴隷の一人や二人が増えたところでその想いが揺らぐことは決してない。彼の想いも自分の想いも本物だと理解しているのだから。


「セラ……」


「ジル様……」


 静かな夜。紅茶で仄かに火照った身体。淡い夜風が見つめ合う二人を優しく包む。


 彼女を怯えさせないようゆっくりと両手を小さな肩の上に置く。華奢なエルフの身体が微かに跳ね、新雪のような柔肌に熱が籠る。


 こうして触れると解る彼女の儚さ。少しでも力加減を間違えれば薄氷の如く砕けてしまいそうな不安と美しい花弁のような尊さが手から伝わってくる。


 セラが潤んだ瞳を瞼で隠し、顎を上げる。彼女の想いに応えるべく、ジルもまた目を閉じ彼女との距離を詰めた……。








「……ほっぺ、ですか……」


 目を開けたセラがポツリと呟く。


 寂しさと安堵が半々といった様子で照れくさそうに笑いながら、耳まで真っ赤になった主人に意地悪く告げた。


「い、今はコレが限界……」


「……フフ。ジル様らしくて、素敵だと思います」


 柔らかい熱が痛い程残る頬を愛おしそうに撫でるセラ。とても幸せそうな彼女を前に緊張の糸が切れどっと汗が噴き出す。


 本音を言えば唇にしたかった、して欲しかった両者であったが、しかし今はこれで良いのだとお互いに満足していた。


 セラが微笑み、ジルは照れくさそうに頬を掻く。そこには身分の差も種族の壁も存在せず、在るのは一つの純粋な想いだけ。


 悪魔と呼ばれた男とエルフの美女が紡ぎ出す、愛の物語がそこにはあった。


「でも、これからもっと多くの奴隷を迎え入れるのであれば今以上に女性に対する免疫は必要ですね!キス程度で怖気づいているようではダメだと思うんです」


「え?」


「だから今日は一緒にお風呂に入りましょう!」


「え?え?」


「もちろん、カリナちゃんもナナちゃんも一緒に!」


「え?え?え???」




 ジルの受難は、しかし幸せな時間は、まだまだ続くのであった……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る