第3話 偽善欲の的

 空まで覆う紅蓮の業火に包まれた村。有象無象の破片と、濁った血と、焼け爛れた肉塊が転がる地面を裸足で踏みしめ駆ける。


 悲鳴にも似た助けを求める声が方々から耳に飛び込んでくるが、少女は立ち止まらない。


 つい数刻前までは動いて、喋っていた。笑い合っていた者達の屍を乗り越え、時には泥のように固まった血や人の形を成していない死体に足を取られ、転び、砂と血に塗れながらも喉を涸らし走り続ける。


 少女の貌は、思考は絶望に染まっていた。本当は確かめたくなかった。しかし、ほんの微かな望みをどうしても捨て切れなかった。無理だと解っていても奇跡を信じるしかなかった。


 辿り着いたのは自分の家。幸いにも家屋は燃えておらず損傷も見て取れない。彼女の中に希望の芽が吹く。期待と絶望が入り混じった少女の鼓動は耳障りなまでに大きくなる。玄関の戸を開け中に飛び込むと、芽吹いた希望は一瞬で踏み躙られた。


 病弱でいつもベッドに寝た切りだった母が、床にうつ伏せで倒れていた。いつも身に着けていた白い寝間着の背中一面が紅く染まり右足は歪な向きに曲がっている。安否を確認するまでも無い。これまでに見てきた惨状がその光景の現実性を裏付けていた。


「……ぁさ……。おか……」



 ――彼女の寝覚めは、いつも最悪であった。



 そこは自然の灯が届かぬ薄暗い部屋。壁に掛けられた蝋燭の揺らめきが涙目の少女を静かに撫でる。


 彼女の名は、ククル。サキュバス専門の娼館『ホリーハウス』で商品として飼われているサキュバスだ。


「……」


 少し慌てたように視線を動かすが、見慣れた鉄格子と石畳にたちまち彼女の顔に影が落ちる。普通、悪夢から目覚めた時は安堵するものだが彼女にとって生の実感は絶望そのものであった。今日は『最後』まで続きを見なかった。それが儚い慰めではあったが。


 身体に掛かっていた薄いシーツで涙と鼻水を拭い取り、ベッドから這いずり降りるとベッドと棚の隙間に膝を抱えて座り込む。寝起きのままの薄黒い緑の長髪は手入れされること無く放置され、見るからに余剰なサイズのシャツも着替えることは無かった。


 ふと、鉄格子の入り口にある台座から湯気が立ち昇るのが見えた。それは彼女に用意された朝食。幽閉されている身分ではあるが用意される食事はいつも充分な味と栄養が備わったものであり、下手すれば平凡な民間人よりも豪勢だ。だが、ククルはそれを一瞥しただけで手を着けようとはしなかった。食べないわけではない。スープが冷め、パンが固くなるのを待っているのだ。


 彼女は敢えて食事の質を落とす。美味と思う物を口にして幸せな感情を芽生えさせてはならない。自分はとことんに不幸であるべきだ。そうでなければならない。それが彼女の信念であった。


卑屈の塊のようであった。時にはパンをわざと地面にこすり付けて食べたりもした。棚の中に入っている可愛らしい衣服には指一本触れていない。そうやって自分を無碍に扱う事で彼女は心を保っていた。不幸と幸福の落差をもう二度と知りたくは無かった。


「……」


 目が覚めて一体どれほどの時間が経過したのだろう。外の様子を窺い知ることが出来ないこの部屋では時間の間隔が失われてしまう。半開きの瞳は何処を見ているわけでも無く鉄格子とその外の世界を映し出していた。


「ククル」


 名を呼ばれたが、顔は上げない。反応もしない。


 不意でも無ければ突然でもない。足音が聞こえていた。誰かが来るのは分かっていた。現れたのは館の案内人であり、実質的な支配人でもあるコークであった。そして、その傍らにはもう一人。


「ほう、この子かね?」


 小太りの男性は火の着いていない葉巻を加えたまま穏やかな笑みをククルに向ける。貴族か成金か、身に着けている者から漂う金の臭いとしつこいまでの清潔感。


「左様です。……本当に、よろしいので?」


「フフ、構わんよ。すぐに我が屋敷に来るよう手配してくれたまえ。何なら購入でも良いのだぞ?」


「寛容なお言葉ありがたく存じます。しかし、誠に申し訳ありませんが、先程もご説明させていただいた通り彼女を購入して戴くにはまず三日間以上の試用期間を経てからとなっておりまして……」


「そうか。まぁ良い。どうせ同じ事だ。よろしく頼むよ」


 客は紳士的な振る舞いでその場を立ち去る。背後で嘲笑を浮かべる店主に気付くこと無く。


「ククル。仕事だ。今夜から三日間、先程の御仁の屋敷で暮らしてもらう。いいね?」


「……」


 問われたところで拒否権など無い。その言葉自体、質問ではなく準備をしておけよという命令。


 コークが立ち去った後、冷めたスープと固くなったパンにありついた。この商館に来て、十八回目の『レンタル』であった。



 ―――――



「さぁ、今日からここがキミの家だよ」


 豪勢な馬車に揺られ辿り着いた街外れの屋敷。派手さこそ無いものの、目新しく綺麗で大きな外見はその男の富を象徴していた。ククルはみすぼらしい姿のまま馬車を降りる。運動不足のせいか、着地と同時によろめいてしまったところを新たなご主人様に優しく抱き止められた。


「ははは、先ずは身体を綺麗にして、そして服だね」


 男はとにかく優しく紳士的であった。侍女らに命じてククルを風呂に入れ、小奇麗で上等な部屋着を与えた。『僕達は家族だ。何も遠慮は要らない』。それが口癖であるかのように都度ククルに言い聞かせていた。


 奴隷としての拘束具は何一つ無く、屋敷の中でなら移動の自由も認められていた。何か労働を強制されるわけでもなく、何かを命令されることも無く、食事も同じテーブルで、なんなら主人が直々に料理をしてククルと侍女達に振舞ったりもした。


 主人は常に温厚で、当然のように性の対象として扱われるサキュバスの奴隷であるククルに対し劣情を向けることは無かった。


 とても奴隷とは思えない厚遇。優しさと温もりに溢れた主人と侍女達の人間性。


 だが彼女はひたすらに反抗し、ひたすらに否定的で、ひたすらに彼らを毛嫌いした。食事もほとんど口にせず直ぐに席を立ち自室へと籠った。わざわざ部屋にやって来て他愛の無い話をしたり、本を勧めたり、お菓子を持ってきたりと何とか関心を引こうとする主人を無視し続けた。


 ククルには見え透いていた。この男が決して心からの善意で自分を引き取り優しく接しているわけではないのだという事を。居るのだ。この手の輩は。弱い者に手を差し伸べられる自分。虐げられし者の生活、人生を変え得る力と寛容な心を持った自分。そして感謝や羨望を向けられる自分。そんな『凄い』自分に酔いたいだけなのだ。それが解っているからこそ彼女は無視し無碍にし無関心を貫いた。


 そうするとどうなるか。それも、いつもお決まりの展開である。


「ククル……。起きているかい?」


 三日目の夜。既に外の世界は寝静まっている時分に主人の男は何の前触れも無くククルの部屋に現れた。問い掛けに返事は無く、男は忍び足でベッドに近付く。そこには静かに寝息を立てている少女の姿が……。


「……」


 見た目は年端もいかぬ少女。しかし、男にとってはそれで良かった。それが良かった。男は静かにククルの胸元に手を伸ばす。手の平から伝わるのは想像以上の吸い付くような柔肌の感触。少しでも力を込めれば沈む指先に男の頭が弾ける。と、その時。


「っ!!」


 異変に気付いたククルが男の手を払いのけベッドの隅へと後ずさる。その目は明確に敵意と殺意が籠っていたが、それでも男は気味の悪い程に爽やかな笑みを浮かべていた。


「ククル、大丈夫だよ。私に任せなさい」


「……」


 決まっている。この手の男が自分の偽善が通用しなかった時に取る行動。それは情欲の剥き出しであった。


「怖がらないで、さぁ……」


 優しい口調であった。その言葉とは裏腹に明らかな欲に塗れた手がククルの胸元に伸びるが、その手が自らの体に触れる事を彼女は許しはしなかった。


「ほごぉっ!?」


 振り上げた爪先が男の股間を強打した。くぐもった声を漏らす男の鼻っ柱にククルの踵が叩き込まれる。情けない声を漏らしながら鼻血を噴き出しのたうち回る主人をククルは光の無い瞳で黙って見下ろしていた。


「おっ、お前……!何を……っ!」


「……」


「ぐっ……!ど、奴隷の、奴隷の分際で!優しくしてやっていればつけあがりおって……!」


「……」


 問答を放棄した奴隷の少女に対し本性を露にした男はククルに掴みかかる。彼女をベッドに押し倒すと服の胸元を力任せに破りククルの未成熟な肢体を曝け出した。雪のように白い肌に濁った赤が滴り落ちる。


「奴隷は奴隷らしく、素直に私の寵愛を受けていれば良いのだ。この生意気な小娘め!」


「……小物ね、アンタも」


「な、なんだとぉ……?」


 漸く聞くことができた少女の声はその見た目に反して落ち着いた声色であり、サキュバスの名に恥じぬ妖艶さを秘めていた。惜しむらくは、その声が乗った言葉が侮蔑であったことか。


「このガキ……!」


 激昂した男の手が細い首に回る。しかし、少女の放った静かな呟きが手の力を緩めた。


『契約』。それがククルの放った殺し文句であった。


 彼女を三日間預かる際の契約として、試用期間中に彼女を傷物にしたり殺めたりすることは禁じられていた。そのルールを破れば商館側に莫大な違約金を支払わなければならない。


 無論、彼女は奴隷であるためある程度の肉体的強制は許されているが、しかし彼女が抵抗し続ける以上、男が己の性欲を満たす為にはかなり手荒な真似をしなければならない。簡単に懐柔できると高を括っていたが故に問題無しと結んだ契約であったが、その効力は歴然であった。最早、この男には彼女を自分の意のままに扱うことが出来なくなっていたのだ。


「ぐっ……!くそぉ!」


 男はククルを突き飛ばすと荒々しい足取りで部屋から出て行った。喧騒が落ち着いた頃、ククルは冷めた表情を浮かべ破れたままの服でそのまま眠りについた。そして翌日、ククルは試用期間を終えあっさりと商館へ返還された。無論、本契約は無し。ククルは再びあの薄暗い鉄格子の中の暮らしへと戻ることになる。


「……ま、予想はしてましたけどね」


 ククルを送り届けに来た馬車を二階の窓から眺めながら呟く支配人、コーク。


 また売れ残ってしまったという呆れと、まだまだ彼女で金儲けが出来るという安堵。複雑な感情が入り混じる彼の胸中を知る者は、居ない。

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