第2話 警鐘②
『それ』に真っ先に気付いたのは、農業地帯で果実の収穫に勤しんでいた奴隷であった。
「……なんだ?アレ……」
目の中に虫か砂でも入ったかとしきりに目を擦るが、しかし瞳に映るその黒い点は消えるどころか徐々に大きくなっている。そしてその全貌が朧気ながら明らかになった瞬間、奴隷達はパニックに陥っていた。
主人の畑を守ろう。そんな殊勝は暴風雨の中に晒された蝋燭の灯の如く。皆が持ち場を捨て、一目散に散開する。その多くはセラセレクタの街へ向いていた。
―――
「オイ!何なんだアレ!」
「俺が知るかよ!!良いからさっさと鐘を鳴らせよ!」
「お前の方が近いだろ!お前が鳴らせよ!」
「お前の方が一応先輩だろ!?早くしろよ!」
見張りの二人はどす黒く巨大な怪物の接近に気付くも、責任の押し付け合いで一向に警鐘が鳴らない。先輩の見張りが漸く鐘を鳴らす為の鉄棒を手にした時には既に肉眼で全貌が捉えられるまで接近を許していた。
まるでガラスをひっかいたような甲高く不気味な鐘の音が街中に響き渡る。あまりの不快な音に見張りの二人は耳栓をしていながらも意識が一瞬飛びかけた。
―――
「……ぅおお。何だこの変な音」
突如鳴り響いた不快な音に顔をしかめるジル。その隣ではカリナが獣耳を目一杯の力で抑え、蹲っていた。広場に集まった者達も決して好意的でない反応を示している。
傍に居たロバートもしかめた面を浮かべながらポツリと呟いた。
「これ、もしかして緊急時に鳴らされる鐘の音じゃないか?」
「そんなのあるのか?」
「ああ、確かあったはずだ。警護の奴等じゃどうしようもない危険が迫った時に鳴らされる筈だけど……。何かあったのか?」
ジル達は周囲を見渡すが、人と家屋に阻まれた狭すぎる視界では何も発見できない。そうこうしている間に、この鐘の音の意味を知る者の言葉や反応が紙に染み込む水のようにたちまち伝播していく。
壇上に居るミリナナも慌てた様子で運営に確認を取っており、来賓も忙しなく首を振っている。しかし、意外な事に民衆はパニックには陥っていなかった。それどころか、楽しそうにしている者さえ居る。
この騒動も祭りの演出の一つなのだろう。という楽観した空気が漂っていた。
「おい!見ろよあれ!何かデカいのが街に向かって歩いて来てるぞ!!」
少しだけ標高の高い位置にある家の二階から、遠眼鏡を掛けた青年が叫ぶ。どこかで見覚えがあると思ったら、以前セラにナンパを仕掛けてきた男であった。
その言葉も相まって民衆が一斉に動き出す。足の踏み場も無い状態でそんな事になれば混乱が生じるのは必然であり、マリステルダ聖団の者達は人々の安全確保に追われる。
『皆様、どうか落ち着いてください』
そんな中、アルテレスの声が魔石を通して響いた。二度、三度と同じ言葉を繰り返す度に民衆は落ち着きを取り戻し、半数以上が広場に留まった。
『この警鐘は、決して演出ではありません。今、謎の大型魔獣がこのセラセレクタの街へ接近中との報告がありました。繰り返します。これは、決して我々が準備した演出などではありません。緊急事態です』
聖女の言葉を頭の内で反芻する内に、人々に動揺が広がっていく。その動揺がある程度広がったのを見計らい、アルテレスは穏やかな微笑みを浮かべながら口を開いた。
『ですが、ご安心ください。このセラセレクタの街には頼もしい護衛の者が付いております。それに、いざとなれば私が皆様をお守りします。どうぞご安心ください』
聖女が魔の手から我々を守ってくださる。その感動的なお言葉に、多くの民衆は感動を露わにした。
『ですので、どうか皆様、落ち着いた行動をお願い致します。大変危険ですので、決して、好奇心や興味本位で魔獣に近付かないようにしてください。よろしくお願いします』
疎らな拍手が巻き起こる。民衆の多くは落ち着きを取り戻したが、残念ながら好奇心に抗えず様子を見に行ってしまった者達は多い。しかし、アルテレスにとってそれは織り込み済みの事態であった。
それどころか、身勝手に行動したものが傷付き、命を落とすことで恐怖が伝播してくれればこれ幸いとまで考えていた。
「すんごいデカい魔獣だってよ。ちょっと見に行ってみようぜ」
「だな」
好奇心に抗えなかったロバートとジルも、野次馬の群れに混じって様子を見に行く事に。しかし、その野次馬の流れは何時の間にか逆流していた。
悲鳴のような声を漏らし街の奥へと転がるように駆けて行く人々の群れ。何事かとジルとロバートが適当な家の屋根に飛び乗る。
「……な、なんだありゃあ……!?」
二人が二人とも少なからずの驚愕を顔に浮かべる。
彼らの視線の先には、今にも街に足を踏み入れようとする黒く巨大な影があった。
―――
「遂に始まったようだね」
中央区にある高台にて。ヴァローダが緋色のマントを靡かせながら下町に視線を向ける。彼は既にトトリオンの姿を肉眼で捉えており、その歩みをのんびりとした面持ちで眺めていた。
隣に佇むメメノも涼しい顔で同じ方向を見詰めている。
普段は静かな中央区も、謎の襲撃者の存在に俄かに騒がしくなっていた。と言っても、恐怖によるものではなく、ちょっとした催しに浮かれていると表した方が正しいか。
「中々に巨大ですね」
「だね。これは流石の聖女サマでも骨が折れるんじゃないかな」
「我々は如何致しますか」
「昨日言った通り、静観だね。聖女サマの思惑がどこまで通じるか、文字通り高みの見物としゃれこもうじゃないか」
ヴァローダの冷たい微笑が、高台を吹き抜けた風に溶け込んでいった。
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