第3話 前屈みに前向きに③

 ジルがククルに命令を下すようになってから二日が経過した。


 反抗するのではないかというジルの予想に反し、ククルは素直に従っていた。掃除をしろと言われれば床を磨き、みんなで一緒に食事をしろと言えば食堂でテーブルを囲む。風呂に関しては自由にしているが、セラとカリナに誘われれば一緒に入っていた。


 掃除に関しては丁寧とは言えず、食事に関しては一言も発すること無く、風呂に関しては体の洗いっこを提案してくるセラに対して『命令?』と問い返したりと、決して好意的ではない振る舞いは相変わらずであり、そして命令された事柄が終わればすぐに自室へと引き籠もった。


 彼女がこの屋敷に来てから四日。未だに誰にも心を開かず嫌悪以外の感情を顕わにしようとはしない。命令には従うが、例えばセラが一緒に本を読もうと言っても無視を決め込み、カリナがナナとの遊びに誘ってもその手を取ることは無く、ジルが他愛ない雑談をしに来ても魔法で追い返していた。機械的な言葉のみを受け入れ、好意的な言葉には尽く拒否と無視を貫いていた。


 一緒にいる時間は増えたが、結局のところコミュニケーションの総量はそう変わってはいなかった。


「はあぁあぁぁああぁ~……」


 風呂上り。最後に風呂に入ったジルはククルに就寝の挨拶をしに部屋を訪ねたのだがいつものように催淫魔法で追い返されてしまった。トイレから出てきたジルは自室に戻り、背もたれの頑丈な椅子に思い切り体を預ける。


 何時かはククルの衣服をひん剥きその色白な柔肌に欲望を突き立ててしまうのではないかと不安に駆られる。今日はたまたま耐え抜けた。そんな危ない綱渡りを予感させる。それほどまでに彼女の魔法は理性を簡単に溶かしていた。


 今日はもうこれで三回目。無理やり欲を掻き立てられるという体験は肉体的にも精神的にもかなりの疲弊を招いていた。ククルの誘惑の魔法を受けた彼の心臓は強心剤でも撃ち込まれているかのように体を揺らすのだ。


「ジル様、お茶をお持ちしました」


 小気味良いノックの後、セラが盆を持って現れた。


「あぁ、ありがとう。……良かったら一緒に飲まない?」


「そう思って、二人分用意してきました。パメの実のクッキーもありますよ」


 川のせせらぎを映したような瞳を細め、柔らかく頬を緩める。ジルは慌てて丸テーブルを部屋の中心に移動させ、部屋の隅からセラ用の椅子を運んだ。


「今日は蒸し暑いので冷茶にしました。香りが少ないので味を濃くしています」


「うん、ありがとう」


 カップに注がれる紅茶の音が荒ぶるジルの心を少しながらも鎮めた。差し出されたカップを受け取り、啜る。熱の籠った体に冷気と甘味が静かに染み渡った。


「カリナは?」


「もう寝てます。お昼にナナちゃんと遊びすぎちゃったみたいですね」


 相変わらずあの二人は仲が良い。いかにベムドラゴンが人に好意的な生き物であるとは言え、あそこまで意思と心を通わせられた者もそうは居なかったのではないかと思える。


「では、私も頂きます……」


 優雅に椅子に腰を下ろし、カップに口を付けるセラ。彼女の言う通り今夜は蒸し暑いため、寝間着も生地が薄くほんのりと肌の色が透け、大胆に胸元が露になる服装であった。


 実はわざとそのような服装で、ギリギリ恥ずかしくなく、ふしだらではないようなラインを見極めてジルを誘惑しようとしているのだが、残念ながら今の枯れ果てたジルにはそれを見ても露骨な劣情を抱くことは無かった。


 が、しっかりと目に焼き付けようとしているのも事実であった。


「ククルちゃん、の事ですよね?」


「ん~?んん……」


 紅茶を啜りながら自身の胸元に視線を送る主人に少し羞恥しながら、セラは自然な笑みで問いかける。ジルはカップを置くと、テーブルに肘を突き視線を落とした。明らかに否定的なその反応にセラも口は笑みを浮かべたままだが眉を垂らす。


「やっぱり、命令するのはちょっと気が引けるね。いや、奴隷って本来はそういう扱い方で良いんだろうけどさ……。俺はどうも慣れないや」


 あぁ、そっちか。セラは安堵の息を鼻から通し、茶を啜る。


「二人にも苦労させてすまないね……。気を悪くしないでもらえると助かるよ」


「全然!そんなこと無いですよ!これはこれで楽しいですよ?やはり人が増えるのは嬉しいことですし、ククルちゃんと仲良くなるぞ、って気合も入りますし」


 それが本心か気遣いなのかは解らなかったが、その言葉だけでも十分救われる気がした。


「ククルちゃんに関して、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが……」


 暫しの雑談の後、ティーポットもクッキーの乗った皿も空になり一息ついたところでセラが改まって尋ねた。


 ククルの魔法も和らいできたジルは必死に視線を彼女の胸元から逸らしつつ、首肯の意を込めて次の言葉を待つ。


「他にも候補は数多く居られたと思うのですが、その中から何故あの子を引き取ろうと思ったのですか?」


 もちろん彼女を否定する意味合いではなく、純粋な、この屋敷に来たのがククルでない別の誰かだったとしてもきっと同じ質問をしたであろうというニュアンスで。そしてジルは迷うことなく答えた。


「庇護欲や同情が無かったと言えば嘘になる。店であの子を見て可哀そうと思ったから、俺が幸せにしてあげたいって思ったから買った。それは間違いなく真実だよ。もちろん、前に話してた償いの意識もあったけどね」


 でも、と、ジルは続ける。


「可哀そうな子に優しくできる自分に酔いたいわけでもなければ、偽善者ぶりたいわけでもないんだ。何というか、ちょっと腹が立ってさ」


「何か、気に障られるようなことでも……?」


「う~ん……。何となく、昔の自分に似てたんだよね。言葉にすると説明が難しいんだけど、完全に絶望してるわけじゃなくて、自らを絶望に落としてやろうって感じっていうのかな。なんかそういう卑屈さを感じてね」


 殆ど空になったカップを意味も無く持ち上げ、眺める。傾けると微かに残った水滴が一か所に集まった。


「だから何としても幸せにしてやろうと思ってね。昔の自分がそうだったように、世の中そんな簡単に絶望できるもんじゃないってことを教えてやりたかったのさ。あの子を最初に見た時、何というか、そんな気分になったんだよね」


「ジル様……」


 感動を羨望を露にするセラを目に、ジルは慌ててかぶりを振った。


「そんなカッコいいことでも偉そうなことでもないよ。何だかんだ言って、結局は俺の欲望の為にそうしたってだけのことだしね。庇護欲も、幸せにしたいって独り善がりも、そしてハーレムも」


「そう言えばそんな野望もありましたね……」


「いや、うん。そうなんだよね。本当は一気に女の子を買って侍らせれば良いんだろうけど、何分慣れてなくてね……。というか、こんな感じで良いのかな?もっと開き直った方が良いのかな?奴隷を買うの」


 真面目に悩むジルに、微笑みかける最初の奴隷。


「ジル様の思うようにやるのが一番だと思います。私はジル様が間違ったことをしているとも、変な事をしているとも思ってませんよ?」


「そう?それなら、こんな感じで良いのかな……」


 野望を持っている割に道筋が明瞭でないのもどことなく抜けた彼らしいと思い、セラは心の中で小さく頷いた。


「もちろん、ククルもハーレム要因の一人だからね。何とか打ち解けないとだ!」


 奴隷なんだから命令すれば良いだけの話なのだが、この男が目指しているものはそうやって強制させた末のものではないとセラも理解していた。ただ、もう少し大胆さがあっても良いのでは無いかと、いつぞやの頬にされた口付けを思い出しながら心の中で苦言を呈した。


「希望はある。それは彼女がここから逃げ出そうとしないことだ。彼女自身に『生きたい』もしくは『死にたくない』って意思があるからだと思う。多分今、彼女は中途半端なんだ。中途半端に自棄になっているだけなんだ。だからその宙ぶらりんな状態を良い方向に偏らせてあげれば良いんだと思う」


「おお!成程です!では何か考えや作戦が?」


「無い!!!」


 自信満々に放たれた無残な言葉にセラの目が点になる。


「取り敢えずもう少し様子を見よう。まだ彼女もこの家に来たばかりなんだし。まだまだ時間はあるんだ、焦ることは無いさ」


「で、ですね!」


 やはり前向きな主人の言葉に従者も力強く同意する。


 ジルもすっかり元気を取り戻したようなのでセラが退出しようと食器を片付けている最中、ふと、返事の期待を一切しない心境で呟いた。


「それにしても、意外でした。ククルさんのような方を選ばれるとは」


「ん?そう?何で?」


「いえ……。次に入れる奴隷はお胸の大きい方にしようと仰られ、て……いたので……」


 しまった。と、セラは顔を背ける。先日、ロバートとジルが話していた会話の内容は彼らにとっては二人だけの内緒話であったことを今更思い出した。


「あ、す、すいません。聞き間違いだったんですかね?あれ?誰から聞いたんでしたっけ……?勘違いでしたね!すいません!聞かなかったことにして……」


「……」


 主人は悟りの境地を開いたかのような生気の無い微笑を浮かべ、組んだ手をテーブルに置いたまま固まっていた。あの会話を全部聞かれていた事実にジルの精神は現実からの逃避を選択していた。


「あ、あの……。し、失礼します……ね?」


 微動だにしないジルに一応確認を取り部屋から出るセラ。扉の先では慌ただしい足音が少しずつ遠ざかっていった。


 絶望って、簡単に出来るものなのかもしれない。ジルはそんな思いを胸に、静かにベッドへ倒れ込んだ……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る