第2話 解放と別れの音色
雲一つ無い晴天が空を覆う某日。サキュバス専門の商館『ホリーハウス』の案内人であるコークがジルの屋敷へ見舞いに訪れていた。
ジルの意向により彼は応接室でなく寝室へと通された。脱いだ帽子を抱え部屋に入ると、ベッドの縁に腰掛ける包帯塗れの男と部屋の隅に蹲る可愛らしい寝間着姿のサキュバスが彼を迎える。セラの魔法が効いているのか、茹るような暑さの外に比べて部屋の中はまるで山奥の洞窟のように涼しかった。
ククルが普通の衣服を着ていることに微かな驚きを抱きつつ、ジルに促されるがまま肩にかけていた鞄を下ろし、用意されていた椅子へ腰を下ろす。窓枠の下で黙ってこちらを睨むククルの視線を感じながら微かに汗で乱れた黒髪を指で整えた後、コークは静かに口を開いた。
「よくぞご無事で」
「この姿を見てよく無事だなんて言えるな」
対面に座る男の嫌味な言い方にコークは澄ました表情で頷いた。
「バラドを相手にして命があっただけでも無事と呼ぶに値します」
「まぁ、それはそうなんだがな……」
「あ、そうそう。お見舞いの品としていくつか果物をご用意させていただきました。セラ様に渡しておりますのでよろしければお召し上がりください」
「お気遣いどうも」
しばしの沈黙の後、重苦しそうにコークが口を開こうとしたのをジルが遮った。
「俺がやりたくてやったことだ」
コークは困ったような笑みを浮かべるも、客自らがそう言っている以上この話はもう口にするわけにはいかなかった。
「……では、本題に入りましょう」
コークは足下の鞄から一枚の紙と一本の羽ペン、そしてインク壺を取り出すと、ジルに向けてテーブルに置いた。それはククルの本契約書であった。
――バラドとの死闘から二日が経過していた。
戦いが終わってすぐ、ジルは自らの手で自身の応急処置を行いながら、自分の部屋の机の引き出しにある呼び出しの魔具を作動させるようセラに命じる。呼ばれたのは、以前第三帝国との戦いで傷ついたジルを治療した医師、オラルであった。
オラルは帝国の人間であるが、彼の患者に対する真摯な態度や医療及び魔法の腕をジルは買っており、何かあった時の為にとこっそり魔具を渡しておいたのだがそれが功を奏していた。
呼び出しを受けたオラルは助手のマルタを引き連れその日の内にジルの屋敷へと駆け付けた。丸い禿げ頭に汗の粒を浮かべたオラルは事の経緯を聞いて驚きながらも呆れた奴だと楽しそうに笑い飛ばし、治療を行った。
施術は屋敷の中では割と清潔を保たれている避難所で行われた。ジルは重傷で酷い開放骨折等もあったがオラルはこれを一時間あまりで治してみせた。相変わらずの激痛に、施術が終わった時の方が弱っているように見えたとセラは言う。
施術を終えた汗だくのジルに対し、オラルはまた何かあれば呼びなさいと優しく告げ部屋を後にする。去り際にセラが用意した謝礼を受け取ると、オラルは颯爽とジルの部屋に舞い戻り、『また何かあれば是非私を呼びなさい』と念押しして帰って行った。余程の額が入っていたのだろう。
その後、セラとカリナに思う存分甘やかされながら療養し、今はほぼ快復に至っている。包帯も明日には取れる予定だ。そのタイミングを知ってか知らずかコークはジルの屋敷を訪ねていた。
「紆余曲折ありましたが、ククルのレンタル期間は終了しました。本契約への移行か、返却か、はたまたレンタル期間の延長か。どうなされるかをお訊ねしたいと思っております」
「答えを知っているからこそ、その紙をそこに置いたんだろう?」
名前を書かせる気満々の光景を前に、コークは涼やかな笑みを浮かべる。ジルは一度ククルに視線を送ると、ベッドから腰を上げ、立ったままペンを握り契約書に自分の名を書き殴った。
「随分あっさりですね」
「今に決めた事じゃないからな」
その言葉はコークを大いに満足させるものであったらしい。彼は大きく頷くと、締結された契約に自身の確認のサインを付け加えた。
これで、ククルの所有権は正式にジルへ移ったことになる。
「というわけだ。これからもよろしくね。ククル」
主人の優しい声掛けに返事こそしなかったが、彼女もジルに視線を向け、少し困ったように眉を顰めると、諦めたように深い溜息を吐いた。感情豊かな彼女の挙動を前に安堵で肩を落とすコーク。
「では、契約成立という事で。本日は我が商館の奴隷をご購入頂き誠にありがとうございます」
「あ、そうだ。契約料は?まだ払ってないよな?」
恭しく頭を下げる案内人へ訊ねるも、コークは穏やかな笑みで答える。
「実は、ククルの契約料は設定されていないのですよ。彼女を本気で迎え入れる覚悟の証明さえしていただければ本契約に関して料金が発生することはございません。そして貴方はそれを存分に証明してくださいました。つまり、そういうことです」
契約書を鞄に収めながら明るい声色でそう告げる。きっと、おそらくはそんなことは有り得ないのだろうが、ジルも野暮なことは言わず承諾の意を伝えるだけに留めた。
「さて。これで私の役目も終わり……と、言いたいところですが。もう一つやり残したことがあります」
コークはそう言うと鞄の中から二つの革袋を取り出し、それを片手にククルの前に歩み寄る。ジルに呼ばれた時とはまるで違う凍り付いたような無表情に苦笑を漏らしながらも少女の前に膝を着き、一つ目の革袋を差し出した。
無反応のククルであったが、ジルに促され渋々受け取る。中を覗くと、そこには大量の銀貨とそれに混じって数枚の金貨が入っていた。
「キミがあの店で稼いだお金です。持って行きなさい」
頭を打たれたような感覚に、ククルは目を見開き顔を上げる。
優しく、穏やかな微笑みが彼女の黒い瞳に映っていた。それは彼女があの館に連れられて来た当初、毎日のように向けられていた暖かい瞳。忘れる筈も無い。短い間だったが、愉しく穏やかだったあの日々。
「それと、これも」
もう一つの革袋の中からコークが取り出した物。それは、球のように丸い陶器に穴が数個空いた手の平サイズの小さな笛。館に来て間もない頃、よく吹いては他のサキュバスに聞かせていた時の、お気に入りの笛であった。
硬貨の入っていた革袋を落とし、ククルは震える手でそれを受け取る。もう二度と手にすることは無いだろうと思っていたそれを前に、ククルは声を震わせた。
「なん、で……」
「今日、出発の際に店に居たサキュバス達に
頭の中の整理が追い付かぬ元商品を放ったまま、立ち上がる元雇い主。
「もう帰ってこないでくださいね」
それは、優しい突き放し。今の彼が彼女に掛けられる最大限の思いやりであった。
「……ズルい男だね。アンタも」
「最大の賛辞と、受け取らせていただきます」
コークはジルの前で深々と一礼すると、本音の笑みを帽子で隠し、静かに部屋から姿を消した。
――その日の真夜中。
普段静まり返ったククルの部屋からは、それはそれは楽しそうな笛の音が鳴り響いていた……。
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