第8話 祈り
いつもは毛先が遊び軽々しい頭髪も、今は汗で濡れ重くしな垂れている。毛先が目に入り眼球を擽るが、青年は瞬きもせず一人の男の背中を見詰めていた。
それは、彼が追い求めていた男の背中。
帝国の威信を具現化したデアナイトという強大な敵を前に物怖じせず立ち向かうその姿は何よりも頼もしく雄大に見えた。
「……」
まさか後輩の正体があの『閃光』であったとは。彼はただひたすら見詰める。見逃すわけにはいかない。あの閃光のロバートが戦う姿を目に焼き付けなければ。
ジメドはそんな決意と憧憬を胸に、戦場に佇んでいた。
―――――
「重傷の者から収容しろ!動ける者は退避だ!急げ急げ!!」
太い声で叫ぶのは、第三帝国の第二大隊隊長でありこの度のレッドデビル討伐戦において魔兵器部隊の隊長を務めていたバーナ=ウィリス。彼は出撃を止められた事により負傷者の救護に当たっていた。それはバーナの独断であったが、今後の士気の事も考えマルドムは諫めなかった。
戦場は凄惨の一言であり、美しかった緑の草原は赤黒い血に染まり、なだらかな平原は抉られ掘り起こされ、その中にかつて人の姿を為していたモノが散乱している。救助は非常に難航していた。
「……」
ふと、まさに今ぶつかろうとする強大な怪物達へと目を向ける。不謹慎かもしれないが、彼はこの戦いの行方に胸の高鳴りを抑えきれずにいた。デアナイトと閃光のロバート。そしてレッドデビルとエルバン。そして奥に控えるソリア皇子とヴァローダ皇子。
一体どんな戦いが繰り広げられるのか、一介の戦士としてこの戦いを見逃す手は無かった。そしてそれは他の者も同様であり、中には重傷を負ったにも関わらず救護の手を跳ねのけ傍観しようとする者まで居た。
「……始まるな」
震える空気を感じ取る。瞬きの後、悪魔の咆哮と甲高い金属音が戦場に響いた。
―――――
瞬きすれば死ぬと思え。それはつい先ほど自分が先輩に向けて放った言葉である。それは事実も含め戦場での心構えを諭す為の言葉であったが、しかし今、ロバートはまさにその言葉を体感していた。
白銀の盾が縦横無尽に彼を襲う。身体を打つ風、微かな音、魔力のうねり、それらを全て感じ取り反射的に躱す。縁(ふち)がほんの少し掠っただけで衣服は切り裂かれ血が舞い、剣で弾く度に骨と筋肉が軋んだ。
体勢を低く保ちながら地を蹴り盾を掻い潜り肉薄する。そして少女に向け剣を向けるも突如として湧く盾により刃は防がれ身体は弾き飛ばされる。身体を駆け巡る激痛の熱に眉間を歪ませながらもロバートは爽やかな笑みを浮かべる事に徹していた。が、何度やっても結果は同じでありそしてそれを繰り返す度ロバートの身体には確実に傷と疲労が蓄積していった。
端から見ればデアナイトの圧倒的優位。決着は最早時間の問題かと思われていたが、ルルの表情は曇っていた。不機嫌そうに眉を吊り小さな唇を尖らせている。
「……真面目にして」
「俺は、至って、真面目だよ?」
肩で息をしながらも尚、朗らかな笑みを向けてくる男に対し少女の目が細くなる。
「何で急所を狙わないの?何で私を殺そうとしないの?バカにしないでよ」
声は小さいが言葉には力が籠っていた。
ロバートの攻撃は狙った場所全てが急所を外れていたどころか、微かに皮膚を裂く程度の攻撃であり、それが意図的な物であるとルルも感じ取っていた。
手加減されている。デアナイトとしての誇りを踏み躙るのにこれ以上は無かった。しかし、目の前の男は困ったように眉を顰める。
「俺は女は殺さない」
「女だからって、嘗めてるの?とても不快。弱者の癖に、生意気」
「バカにしてないし、嘗めてない。これは俺の信念だ。キミがどう思おうと勝手だけど、これだけは曲げるつもりは無い。ただ、弱者から手心を加えられた、と感じたなら……。謝るよ」
刹那、ルルの瞳に奔る閃光。
最早それは意識の枠の外にあり、生命の危機に対する本能のようなものであった。
彼女の視界を覆い尽くしていた剣の切っ先を、一枚の盾がかろうじて弾き反らした。火花が激しく跳び、鋭い疾風が遅れて巻き起こる。見える見えないの問題ではない。気付いた時にはもう盾が身を守っていた。
咄嗟に盾で押し返すルル。速い。速過ぎる。意識よりも速い。閃光という名は伊達では無かった。
彼女が不機嫌だったもう一つの理由にロバートの速さがあった。彼女は決して手を抜いては居らず現状出せる力の全てで彼を仕留めに掛かっていた。しかし彼の速さを正確に捉え切れることは出来ず、目では追うのではなく彼の次の行動を読んで盾を動かしていた。
彼はそんな状態から更に速度を上げてきた。
「今のもダメか。流石だね」
ロバートは気だるそうに立ち上がると、小さく息を吐く。
「!!」
裂かれた風に混じり、血の臭いが通り抜ける。
『後』『背』。断片的な言葉が脳裏を駆け巡った時には既に背後からの襲撃を受け止めていた。今になってようやく振り向き後方に飛び退いたルルの身体。盾が無ければ一体何度致命傷を負わされていただろうか。
遅れて流れた音と風が『閃光』へ跪く。
「俺もコイツも、実戦は久方ぶりでね。起きるのに随分時間が掛かったよ。実力を誤解させていたのであれば申し訳ない。こっからはちゃんと本気さ」
手にした名刀の刀身が応えるように淡い光を放つ。
先程までの軟派な男の姿はそこに無く、在るのは『閃光』の名を冠した怪物。
「……なるほど。分かった」
まだ心のどこかで彼を嘗めていた。デアナイトであるが故の誇りが邪魔をしていた。一介の傭兵如きに、そう思っている自分が居た。
だが、彼女はその微かな不遜すら捨て去った。この男に敬意を表し、全力を以て排すると決めた。
「『インガレオ』」
広い空洞に水滴が滴るような澄んだ声。放たれたその言葉に、ロバートの背が凍る。
その言葉は彼もよく知っていた。
その言葉は人々が創り出した偶像へ捧げる祈りの言葉。
冒険者が旅立つ前に唱える『御守り』のような存在であったり、親が寝る前などに我が子に注ぐ『愛のおまじない』だったりする。しかし、その言葉にはもう一つの意味があった。
それは、『祝福』。
その言葉は祝福を受けた者がその力を顕現させるための鍵であり、その力は祈りによって解き放たれる。
「アナタに敬意を表して、全力で潰してあげる」
力を解放したルルの周りで可視化できるほど強大な白き魔力が渦巻く。彼女の瞳からは蒼白の輝きが霧のように揺らめき溢れ、長い髪は扇のように広がり不気味な豊麗が彼女を包む。
身体から噴き出す魔力の勢いだけで膝を突きそうになってしまうロバート。
「……それは、反則でしょ……」
視界が開けたと同時に、彼は自嘲気味に乾いた声を漏らした。
瞳に映ったのは、眩しいまでの絶望。
宙に浮く盾は六つに増殖し、その頭上には新たに顕現した雄大な一対の白き
これが、彼女の全開の姿であった。
「勘弁してくれ……」
想定はしていた。相手はあのデアナイト。その力を有している事は必然として想定していた。
しかしその強大さは想定を超えていた。苦戦を強いられている盾が増え、更には『受け』の選択肢を排除せざるを得ない大剣。そしてルルが放つ桁違いの魔力を前に足が震える。ドラゴンに挑む虫けらのようなイメージを抱かせられる威圧感に歪な破顔を浮かべるしかなかった。
だが、征くしかないのだ。相手がどれだけ強大であろうと自分のやる事は変わらない。
(とんだ……。とんだお願いを聞き入れちまったもんだよ、俺もさ……)
ふと思い出すのは、麗しいエルフの泣き顔。あんな美人の為に死ぬのなら悪くは無いかと苦笑を漏らし、ゆっくりと身体を前に落とした。
一つ目の盾を躱し、二つ目の盾を掻い潜ったところで目に火花が散る。意識の範囲外から突如として現れた盾が彼の上半身を強打した。
鼻と頬が砕ける感触。血が流れ出るよりも速く大剣の追撃が襲い来る。
胴体を真っ二つにせんと薙がれる大剣を前にロバートは咄嗟に後方に跳び、剣の刀身を平にしそれを左足に添えて受け止めた。受けてはならないと分かっていてもあまりの速さに受ける以外の余地は無かった。
「がっ……!」
切断は免れたものの衝撃で左足の脛がへし折られる。身体は宙に浮き上がり少し離れた瓦礫の中に着地した。折れた足を庇うようにして立ち上がるロバートの額には脂汗が滲むもしかし笑みは保っていた。
「今のは
「そりゃ、ど~も……」
尚も轟々と魔力を噴出し続ける少女の余裕の姿に色男は笑顔を崩しかける。
ルルは完全にロバートの姿を捉えており、最早彼の速さでは彼女をかく乱させることは出来なくなってしまっていた。彼女を本気にさせたツケは、あまりにも大きい。
「はは……」
参った。こうも実力差があるとは。彼は心の中で白旗を振っていた。今すぐにでも両掌を晒したい気分だった。
ルルが力を解放してから盾の速さが比較にならない程上昇していおり、ロバートの速さを以てしても振り切れない。更に地面を果物のように切り裂く大剣が盾と同じ速度で襲い掛かって来る。このままだとどう転んでも勝ち目は無い。今の一瞬のやり取りですらこうして生きていたのが奇跡に感じる。
あと何度覚悟を決めればよいのだろうか。途方も無い力を前に辟易を湛える。
しかし、それでも、彼は征くのだ。
静かに深く息を吸い、細く吐き出す。どこからか聞こえる小鳥の囀りが止んだ瞬間、彼は右足で地を跳ねた。
盾と剣の速さは理解している。ならばその上で予測し、躱せばいい。
しかし、一枚目の盾が頬を掠めたところで、一瞬にも満たないような時間足が硬直してしまう。
遠く感じた。少女までの距離が。
どれだけ近付こうと、どれだけ手を伸ばそうと、爪の先ですら触れる事すら適わない程遠くに。その絶望感が彼の緊張の糸を絡め捕り、足の動きを止めていた。
恐怖に陥っている暇など、戦場には無いというのに。
「がふっ……!」
腹に突き刺さる盾の縁。反吐と血を撒き散らしながら吹き飛ぶ身体。着地した足が左足だったのも不運し動きが鈍る。
(来る!)
大剣の切っ先を感じ取り、後方に跳ね身を翻し躱そうとする。
「!!?」
しかし、その背は一枚の盾に優しく受け止められた。彼の回避を呼んでいたルルが、その退路を断っていた。
「しまっ……!」
悪寒が、全身を包む。
右の腹を裂く無慈悲の大剣。意識を飛ばさぬようロバートは奥歯に全霊の力を籠めながら地面に転がる。何とか胴体の切断は免れたがしかし脇腹がぱっくりと切り裂かれ夥しい血が地面に零れ落ちる。
ロバートは左手で傷口を抑え内臓の流出を防ぎつつ右手で胸ポケットから針とそれに結ばれた紐のようなものを取り出し手際よく傷口を縫い合わせる。十秒も満たない内に応急処置は終わり、血は収まらないが内臓が零れ出るのは未然に防げた。
「……凄いわね。色々と」
「ど、ど~も……。何かあっ……た時の、為にっ!……持ち歩い、てるのさ……」
喋る度に口から溢れる朱。しかし尚も笑みを浮かべようとする目の前の男の胆力に流石のルルも称賛の念と僅かな恐怖を感じていた。
(あ~……。チクショウ。やっぱり鈍ってんなぁ……)
真っ赤に染まった手に視線を落とし、心の中で悪態をつくロバート。
左足は砕かれ腹は裂かれ、加えて多量の出血。そしてこんな惨状になるまで戦いながらも相手は無傷。相手の魔力が尽きるまで逃げ回る手も考えたがこの身体では、いや、万全の状態であっても無理だっただろう。
勝敗は、決した。
「…………」
息を荒げながらも、ロバートの頭の中はすっきりしていた。吹っ切れたと言った方がよいのかもしれない。瞳に映る世界がやけに鮮明だった。
不意に、少し離れた所で戦う友の姿が視界に入った。彼もまた三人の怪物を相手に苦戦を強いられている様子であり、更にこのデアナイトまで参加されてしまってはジルの勝ち目は更に薄くなってしまうだろう。
本来であればデアナイトを打ち倒しジルに加勢するつもりだった。できれば、力を温存して。しかしそれは余りにも甘すぎる展望であり、実際には倒すどころか殺されようとしている。圧倒的な差を付けられて。
「参った、本当に、参ったよ……」
笑った。やれやれと、空を見上げながら。
「どうしたの?降参?命乞いでもしてみる?」
絶対に聞き入れない。そう思わせる少女の冷徹な声にロバートは肩を竦める。
「そういう意味じゃない、さ。もう、こうなったら、俺も、頑張るしか、ないかなぁ……って、さ」
「……どういう意味?」
ロバートはそっと、右手に握る愛刀へと視線を落とす。彼の相棒は、溢れんばかりの輝きを湛えていた。その姿に彼は諦念混じりに笑みを浮かべた。
「奥の手を持っているのは、キミだけじゃない、ってことさ」
そう答えると、男は名刀エクレルの刀身を静かに鞘に戻し、そして呟く。
「インガレオ」
その瞬間、ルルの瞳に映る閃光。
気付けば自分を通り抜けていた。彼女を護る為の盾も剣も、一切動くことはなかった。彼女の背後に佇む金色(こんじき)の髪の男は、前屈みで抜身の剣を突き出した状態で固まっている。
ほんの一瞬の静寂。奔る緊張。
世界の全ての時間が止まったかのような空間の中、変化が起きた。
「……!」
少女の白く長い髪が、肩の上あたりから綺麗に切断され彼女から離れて行く。切られた髪は遅れて発生した風と衝撃波に呑み込まれ天高く消えていった。同時に、ロバートの身体から血が噴き出し辺りに飛び散る。
「……俺は、ショートカット派、なんだよ……ね…………」
彼はそう言い残すと、剣を抜いたまま前のめりで倒れ込んだ。
「え。え?え!?」
少女は目を見開き小さな手で自分の身体を
「そこまで!!」
突然頭上から響く声。見上げれば、ヴァローダが惜しみない拍手を送っていた。
「この勝負、ロバートさんの勝ちだ」
「え……。な、何故……」
ルルが倒れたロバートに攻撃すればそれで勝負は着くというのに、主人はあろうことか既に勝負は着いたと宣言し、更にその結果が相手の勝利だと言うのだから彼女の疑問は尤もであった。しかしヴァローダは告げる。
「キミは命を救われたんだよ。彼が本気でキミを殺そうと思えば今の一瞬で首を跳ねていただろう。だが、彼はそれをしなかった。恐らくそれは彼がさっき言っていた主義によるものなのだろう。何にせよ、勝負ありだ。キミの負けだよ」
「そ、そんな……」
納得がいかない様子で眉を顰めるルルであったが、しかし主人の言う事も尤もであった。おそらく彼は切ろうと思えばどこでも切れたはずだ。彼女の身体を覆う魔力の膜を容易に切り裂きその柔肌に朱を走らせられただろう。
それを敢えて、後頭部の頭髪を切断してみせるというより難度の高い事をしてのけた。その意図は、彼女も理解出来ていた。
「でも、やっぱり納得できません」
「それは残念。でも、結果は結果だ。文句があるならそこで倒れてるロバート君に言いなさい。もっとも、そのまま放置してれば出血多量で死んじゃうから文句も聞いてもらえなくなるだろうけどね」
「…………」
それは随分と意地悪な命令であった。ルルは頬を膨らませながら遠巻きの救護隊に視線を送る。
二人の戦いが終わった事を確認しつつ恐る恐る救護隊が駆け付ける中、勝利を手にした眩い金髪の男は静かに口角を上げ、『後は頑張れよ』、と心の中で戦友にエールを送るのであった。
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