第8章
第1話 閉じることのない世界の中で①
「愛してくれてありがとう」
指先一つ動かなくなった自分の身体を抱きかかえる男に告げる。
「私の事は忘れて。その代わり、もし今後あなたに愛しい人が出来たなら、私の分まで目一杯愛してあげて。そして、何があっても護ってあげて。私の願いは、それだけ……」
女性の頬に熱い雫が滴り落ちる。
「約束する。必ず。でも、お前のことも忘れない。絶対に忘れない。それだけは、譲れない……!」
「……嬉しい。ありがとう……」
少女は静かに微笑むと、愛した男の腕の中で紅い灰となり風に吹かれて散っていった。
男は、慟哭を撒き散らす。
見上げた空は、悲劇を祝福するかのように晴々していたことを、今でも覚えている。
――――――
「…………」
必ず助ける。必ず。
男は心の中で呟き、そして駆け出した。
――――――――――
「ね、ねぇ、スワン君」
「はいはい」
「な、何で僕らはこんな前線に配属されてるのかな……?」
「そりゃあ、僕らが使い捨ての駒だからっすよ。当然でしょ」
「そ、そんなぁ……!」
遮蔽物も無く、平坦で見通しの良い平原のど真ん中で、下級兵士のジメドは悲鳴を上げた。
ロバート(スワン)とジメドは、所謂無能処理場である最前線に配置されていた。丘の上には既にレッドデビルが馳せ参じており、部隊は熱意と動揺で混乱状態に陥っている。
始めの内は大人数の中に身を寄せ仮初めの安心を得ていたジメドも、悪魔を目の当たりにすると現実に引き戻され脚が笑い出した。
ロバートもジメドもろくな装備が支給されておらず、城下町をパトロールする時となんら変わらぬ軽装である。これでは矢の一つも防げない。身軽に動けると言えば聞こえはいいが、そんなものは素人の混戦において重要視すべき点では無かった。
「何を今更。一番不要で死んでも困らない奴等は最前列。ソリア皇子らしいじゃないっすか」
「不要って、そんなぁ……。ぼ、僕は戦争は初めてだから、てっきり安全な所に配備されるものだとばっかり……」
今にも泣きそうな先輩に、ロバートは高らかに笑う。
「そんな甘い話があるわけないじゃないっすか~。にしても、初めての戦争の相手がレッドデビルってのはツイてますね!子孫へ語り継げるレベルっすよ。ま、生き残れればの話っすけどね」
「じょ、冗談じゃないよぉ……。ってか、なんでキミはそんな余裕そうなのさ。怖くないのかい?」
「全然。寧ろワクワクしてますね!」
「す、凄いなぁ。他の先輩達はみんな怖がってこっそり後方に退いちゃったっていうのに……。一番後輩のキミが一番頼もしいなんて、先輩として情けないよ」
「姿が見えないわけだ。いつもエラそうにしてるくせに。先輩はいいんすか?後方に逃げなくて」
「ぼ、僕だって逃げたいのは山々だけどさぁ……。こ、後輩を一人残してそんなこと出来るわけないだろぉ……!」
「……へぇ」
ロバートは驚き瞼を上げる。どうやらこのジメドと言う男は、あの先輩達では生涯かけても得ることのできない無いモノを持っているようだ。
「ま、相手はたった一人なんすから。そうビビることはないっすよ」
「そ、そりゃ相手がレッドデビルじゃなきゃそうだけどさぁ……」
その瞬間、目に見える範囲の全てに強烈な咆哮が轟いた。
それは突風を巻き起こし、恐怖を波紋の如く伝染していく。あまりの衝撃に兵士や傭兵の何人かはその場に武器を落としてしまっていた。汗まみれの手で握っていたジメドの刀剣もまた、地面に滑り落ちる。
それが開戦の合図であると、誰もが理解した。
「さぁ、始まりますよ、先輩」
「ひ、ひぃぃ!」
慌てて剣を拾い握り直すジメドを余所に、数十人の血気盛んな男達が黒い鎧の男目掛けて走り出していた。
我先に手柄をと言わんばかりの命知らずが、地面を吹き飛ばし轟々と駆け降りてくる悪魔へと突撃する。
が、兵士や傭兵達は、攻撃されたわけでもなく、ただただ走っているレッドデビルに触れただけで吹き飛ばされた。
羽虫の如く、相手にすらされていない。後から続く者達も、刃を突き立て、棍棒で殴り掛かり、剛力を以て掴みかかろうとするが、誰一人として彼の疾駆をほんの僅かでも止められる者は居なかった。
戦いにすらなっていないその光景を前に恐れ慄いた者達は自ずと道を開け、レッドデビルは悠々とその間を駆けて行く。邪魔する者は例外なく吹き飛ばされた。
「おいおい、随分呆気無いな」
一瞬で崩れ去った肉の壁を前に、堪らず失笑を漏らすロバート。統率も無く策も無い寄せ集めの軍隊ならこうなるだろうとは思っていたが、それにしても呆気なさ過ぎた。
第一陣の犠牲者は軽傷者も合わせて百人弱。お世辞にも戦闘とは呼べぬ戦闘が始まって一分と経過していない。
「ははは、体力を削るどころか時間稼ぎにすらなってないぞ。こりゃあソリア皇子もさぞ頭を抱えていらっしゃることだろう」
嫌味たっぷりな笑みを城壁に向けるロバートと脚を震わせ立ち尽くすジメドを余所に、レッドデビルは第二陣へと突っ込んでいった。
第一陣ではレッドデビルを追う者と、恐怖のあまりその場で立ち尽くす、若しくは動こうとしない者で別れる中、どこからともなく職場の先輩達が息を切らし二人の前に姿を現した。
心なしか彼らの装備はロバートとジメドの物より上質に見える。
「おい!お前達!無事だったか!」
「先輩方も、命は有ったみたいっすね」
見たところ彼らは無傷。どうやら無事逃げおおせたらしい。
「あぁ!立ち向かいはしたんだが、惜しくも逃がしちまってな……」
「だったら追っかけたらどうですか?まだ間に合いますよ?」
「え、い、いや、もうレッドデビルは第二陣の奴等が相手してるし、邪魔するのもなあ……」
「あっそ。じゃ、どうしようもなく弱虫で役立たずなアンタらはそこらで情けなく腰でも抜かしときな。俺は行くぜ」
「なっ!?お、お前、何を……」
突如とした後輩の変貌ぶりに動揺と怒りを露にするが、ロバートは既に第二陣に向け真っ直ぐ走り出していた。
腰にぶら下げた剣が、早く抜けと震えている。
ロバートは子供の無邪気な高揚感にも似た気持ちを必死で抑え込みながら、悪魔の、旧友の背を追った。
―――――
第二陣の堅牢な衛を前に、流石のレッドデビルも第一陣のように突き抜ける事は出来ずにいた。
ドワーフの振り抜く戦斧が腹に直撃し、オークの巨大な拳が顔面を捉え、他の魔物や傭兵の振るう殺意を躱す事無く一身に受けながら、尚もメイスを握ることなく素手で邪魔者を排除し、並み居る猛者を相手に少しずつ前進しながら戦いを繰り広げる。
命を捨てて飛び込んでくる者を望み通りにと言わんばかりに薙ぎ払い、吹き飛ばし、引き裂いていく彼の後には血の海が。
慈悲や容赦を欠片も窺わせることの無い、理性を吹き飛ばした獣のような暴れっぷりに、無意識に上がるロバートの口角。
友のその背に郷愁を見た。共に戦いに明け暮れた、あの頃を。
「す、スワンく~ん!ま、待って~」
背後から声。足を止めて振り返ると、そこには震える脚を必死に動かし此方へ向かって来るジメドの姿が。
「は、早いよ、足……」
荒げた息で恨みがましそうに口にするジメド。汗まみれになった彼のくせっ毛が額に張り付いてしまっている。
「どうしたんすか?こっち来たら危ないっすよ?向こうで他の先輩達と同じように避難してないと」
「そ、そう思うならキミも避難してよぉ~!キミが危ないとこ行っちゃうから、僕もついてかなきゃいけなくなるんだよぉ~!僕はキミの先輩なんだぞぉ~!放っておけるわけないだろぉ~!!」
顔を真っ赤にし、恐怖で涙を流しながらも震える膝を平手で叩き続ける先輩。ロバートは決して、彼が弱虫の役立たずだとは思わなかった。
「先輩は俺の後ろについて来てください。そうしてる限り、死にはしませんよ。多分ね」
「えぇ!?ちょ、ま、待ってよぉ!」
言うだけ言って駆けだす後輩の背を、噛み付くように追いかけるジメド。しかし、もうあと少しで第二陣に接触するといったところでロバートの足が止まる。
「……アレは……」
「え?なに?どしたの?」
ロバートが見たもの、それは、城壁に帯びた淡い白の光。
その光は瞬きの後に一斉に放たれ、矢となり刃となってロバート達の頭上を通過し、第一陣に降り注いでいた。
まるで絨毯で覆い被せるような逃げ場のない密度で降り注ぐ魔力の塊に、第一陣で呆けていた者達は蹂躙されていく。
顔を抉られ手足を吹き飛ばされ腹を貫かれ、あまりに軽々と散っていく数多の命。その中には先輩達も紛れており、ジメドは凄惨極まる光景に絶句した。
「……何考えてやがんだ、あの皇子サマは」
憤りを露にしながらも、あの場にジメドが居なくて良かったと安堵しながらロバートは再び足を踏み出す。
戦争は、まだ始まったばかり。
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