第6話 初夜を迎えて


 風呂から上がり軽装に着替えたジルは、自分の部屋にあるベッドの端に神妙な面持ちで座っていた。


 彼の部屋はセラの部屋よりも広いが物は少なく、窓際にある小さな机、ベッドにクローゼット、そして大きな円形の藍色のカーペット以外には何もない簡素な内装であった。


 枕元の明かりは点けておらず、開けた窓から差し込む満ちた月の明かりが妖しく部屋を照らしている。


「…………」


 今宵は気持ちの良い風が吹き気温も低く快適であったが、ジルの手と背中には汗が滲んでいた。


 踵の浮いた右足は小刻みに震え、無意識の内に荒い鼻息が漏れている。鼓動はけたたましく耳に響き、身体中に熱が走る。


 ――初体験を、迎えようとしている。

 

 その事を考えれば考えるほど、劣情と緊張が高まっていく。過去幾度と無く修羅場をくぐり抜けてきた彼であったが、これほどの窮地に陥った事は記憶に無い。


 風呂場でセラの裸を見た時は、そのあまりの美しさと艶やかさに堪らず飛び掛かりそうになったのを必死で我慢していた。


 相手は奴隷なのだから好き勝手すれば良いのだが、最高の相手と最高の初体験をするという青臭い夢があった彼は死に物狂いで理性を繋ぎ止めていた。


 その忍耐、そしてその長きに渡った夢は遂に今、実を結ぼうとしている。


「ふぅ」


 緊張のあまり喉が渇く。水を飲もうと水差しに手を伸ばそうとしたまさにその時、運命のノックが広い部屋に小さく響いた。


 それはかつて彼が戦場で耳にした、何十という樽に詰め込まれた火薬の爆裂や大地を揺らす巨大な魔獣の咆哮よりも遥かに強く耳に響いた。


 ジルは大急ぎで水差しの水を飲み干すと、来客の入室を促す。


「……失礼します」


 現れたセラの姿が瞳に映ると同時にジルは息を呑んだ。


 彼女が身に着けていたのは蝶のように艶やで軽やかな紫のランジェリー。しかしその布面積は異様に少なく、薄く透き通った布が胸と腰回りを覆っているだけ。彼女の雪のように白い柔肌がほぼ全て月光の下に晒されていた。


 まだ水気を帯びたブロンドの長髪を靡かせ、ひたひたと裸足でベッドの傍に近寄るセラ。距離が短くなるにつれ、彼女の息遣いが耳を擽り、花の蜜のような甘い香りが漂う。


 成程、こうして見るとやはり彼女は極上の奴隷であった。


 あどけない表情や淑やかな態度からかけ離れた凶悪で豊満な胸、抱けば折れてしまいそうな細い腰。そして程よく肉付いた太腿と臀部に、触れれば吸い付く瑞々しい肌。


 男の願望を詰め込んだようなプロポーションであり、そしてこの身体で未だ生娘というのがジルには俄かに信じられなかった。


「に、似合ってるよ」


 月並みな称賛にセラは顔を赤らめ下を向く。彼女に関する衣服はアシモフに頼んで取り寄せてもらっており多種多様なものが存在するのだが、彼女が夜伽に選んだのは中でも一番大胆で露出が高い物であった。


 恐らく彼女なりの覚悟の表れなのだろうが、今のジルの頭は完全に茹だっておりそれを察する余裕など無い。


 セラはジルの前に歩み寄る。そこは、丁度窓から差し込む月明かりが差し込む位置。最早、彼女の躰を隠す物は無きに等しい。


「どうぞ、可愛がってください……」


 少しだけ腰を落とし、謙るセラ。おそらくジルが過去これまでに出会ってきた中で最も、そしてずば抜けて美しい女性に『可愛がって』などと言われ、ジルは鼻の奥から込み上げる熱を何とか堪える。



 ……しかし。さて、ここからどうしたものかとジルは悩んでいた。



 ジルは童貞であり、女性と睦まじい仲になった事も無い。故に、夜伽の作法や技術などまるで身に付けていない。


 過去にロバートから色欲に塗れた情事を聞かされたことは幾度と無く有るが、それが何の参考にもならないことはジルでも分かっていた。


 始めは口づけから始めるのが良いのだろうか。


 いや、それでは性急過ぎる。先ずは会話で気を解してからだろうか。


 何を言う、相手は奴隷、そして自分はその主。欲望のままに身を任せれば良い。


 あらゆる思考が彼を金縛りにする中、同じように動けないでいたセラが耐えかねて口を開いた。


「あの、し、失礼します……」


 炎よりも熱い手が、ジルの両頬に添えられる。彼の紅玉の瞳に映ったのは、潤んだ蒼き瞳に、仄かに尖った薄桃色の唇。


 いっそのこと自分から身を投げ出そうと決意したセラの行動であったが、しかしそれは彼女にとって悪い方向へと情事を進める事となってしまう。


「きゃっ……!」


 いきなりの接近に驚いたジルは咄嗟にセラの腰を掴み、軽々と持ち上げるとそのままベッドに組み伏せたのだ。痛みこそないが、突然の力技にセラの口から無垢な声が漏れる。


「す、すまない。いきなりで驚いてしまっ……」


 言葉を呑んだ。眼下には、自分が組み伏せているセラの裸体が。


 激しい動きでランジェリーは乱れ、最早何も隠せていない。飴細工のように煌びやかな長髪はベッドの上で力無く乱れ、掴んだ手首からは忙(せわ)しい鼓動が伝わる。唇からは熱い吐息が漏れ、太腿は悩ましく擦れ合う。


 限界だった。寧ろ、ただでさえ女性に免疫の無いジルが良くここまで我慢したと言えよう。


 彼は欲望のままに、その武骨な手を広げ形良く張った胸に手を伸ばした。指先が柔肌に触れ、セラの躰が跳ねる。その時だった。


「す、すいま……せ……」


 微かに聞こえた嗚咽が、雄の手を止めた。


 見れば、セラが両手で顔を覆い、肩を揺らして泣いていた。


「わ、わたしっ、初めてで……。や、やさ……」


 それ以降の言葉を彼女は噛み殺した。奴隷である自分が主人に物言いなどあってはならないからだ。だが、まだ未成熟な彼女の心はどうしてもその言葉を、懇願を漏らさずにはいられなかった。


 セラは顔を隠す手を退け、下唇を噛みながら目を固く閉じた。触れた手からは彼女の強張りが意志となって伝わってくる。


「……」


 ジルは逡巡の後、彼女の上から退いた。ベッドの縁に腰を掛け、重苦しい溜息を吐き出した。


 その様子を見て、セラが慌てて飛び起きベッドに頭を擦り付ける。


「も、申し訳ありません!私は、私は大丈夫です!だから、ジル様のお好きなように」


「……俺も……なんだよね……」


 大きな背中から聞こえてきたのは威厳の漂う深い声ではなく、空っぽでどこか気だるげな乾いた声。


 セラはか細く疑念を漏らす。


「え……?」


「いや、その……。初めてなの!俺も!」


「え、あ、え!?」


 突然の豹変、突然のカミングアウト。セラは目を白黒させ慌てふためく。


「そ、そうなんですか?」


 素っ頓狂な声でそう問い掛けるより他に無かった。


「いや、うん……。多分キミさ、俺の色んな悪い噂聞いて勘違いしてたんだろうけど……。俺まだ童貞だから。未経験だから。上手いとか絶倫とか無いから。優しくしろって言われても分かんないから……」


「え!?あ、そ、それは……。すみませ、ん……?」


 どう反応するのが正解なのか分からず狼狽えるセラを尻目に、巨大な背を丸めたジルは再び深く息を吐き出し、大きな手で頭を掻く。


「あ~!もう!なんっか違うんだよなぁ~。なんか俺が思ってたのと違う」


「え?え?あ、あの、私、何か不手際を……?」


「不手際ってわけじゃないけどさぁ……。まぁ、もうこの際教えるけど……」


 ジルは自分が昔から抱いていた夢を掻い摘んで打ち明けた。


 最高の初体験をすること。そして、奴隷のハーレムを築く事を。そのあまりにもロマンチストで俗物的な夢の内容に、セラはただただだらしなく口を開けたまま聞いていた。


「確かにキミは最高の女性だ。それは間違いない。でもさ、こう……泣くほど嫌がる相手を無理矢理ってのは、何か違うんだよね……」


「……そっ、そんなことないです!私は大丈夫です!好きにしていただいて構いません!」


「それは本心じゃないでしょ。何かこう、自棄になっているような気がするよ」


「それは……。その。だって私、奴隷ですから……」


「そう、それ。それなんだけどさ、別に奴隷だからってあんまり卑屈にならないでほしいんだよね。俺も奴隷を買うのは初めてだから良く分かんないけど、でも余所は余所、うちはうちだから」


 ちらりと背後のエルフに目を向けるも、既に彼女の衣服は衣服としての体を為して居らず、逃げるように視線を元に戻す。


「俺はキミに無理強いしたいわけでも無ければ乱暴に扱いたいわけでも無い。もちろんそういった目的で買った部分もあるっていうのは否定しないけどね。確かに奴隷という立場かもしれないけど、キミにはそれなりに自由に暮らしてほしいと思ってるし、望みがあれば叶えてあげたいとも思ってる」


「で、でもそんな……」


「言いたいことは分かるよ。でもこれまでの待遇を見て、イメージは割と緩和されたんじゃないかな?俺もそうなる様に努力してみたんだけど……」


 その言葉に思い当たる節は多かった。


 最初の部屋の一件からしてそう。何をするにつけても気を使われ、まるで客人のようにもてなされ、事あるごとに気を掛けてくれていた。それは成程、とても奴隷と主人の主従関係らしくないものであった。


「で、でも私、ご主人様の夢を果たすことが出来ませんでした……。そんな私に、存在価値など……」


「いや、あるから。部屋の掃除とか、料理とか、やってもらいたいことはいくらでもあるから。それに、まだ夢は諦めていないよ。キミが嫌がらなくなってくれた時に、また挑戦させてもらうからさ」


 それは何とも涼し気な笑みであった。悪意など欠片も無い、慈愛に満ちた微笑み。そこには悪魔などと畏怖される男の姿はどこにもなかった。


「だ、だから取り敢えず今日はナシ!取り敢えず、布団身体に巻いて!まともに見てられないから!」


「え?あ!は、はいっ!」


 セラがほぼ全裸の身体を慌てて布団で隠したのを確認してからジルはベッドに乗り、やっと彼女と正面から向き合った。


「何にせよ、この家にはどうしたって俺以外の誰かが必要なんだ。俺一人じゃ管理し切れないからね。だから、確かに契約上は奴隷かもしれないけれど俺はキミを家政婦若しくは召使、はたまたメイドのように扱うことにするから。あと、疑問に思ったことは何でも聞いてくれて構わない。気軽に俺と接してくれるととても助かるよ。それだと不服かな?」


「……とんでもないです。う、嬉しいです……」


 セラは再び大粒の涙を溢す。しかしそれは、熱く穏やかな涙であった。


 きっと、想像を絶する不安をその小さな体に抱え込んでいたのだろう。それを解っていたジルだからこそ、こうして彼女の荷を降ろしてやれたことに少なからず満足感を抱いていた。彼の心は今宵、十二分に満たされていた。


 数分後、彼女が泣き止み落ち着いたところを見計らって口を開く。


「鎧の件も、あと偉そうな喋り方も悪かったね。怖がらせたでしょ?」


「……しょ、正直、少し……」


「だよね。いや、本当にごめん。何というか、威厳を保ちたくて着けてたんだよね。喋り方も、余裕のある大人を演出したかったというか……」


 聞いてみれば何とも子供っぽい理由である。そしてそのくだらない理由がセラの笑いを誘った。


「フフ……。そうなんですね」


「あっ、笑った。やっと笑ってくれたね」


 嬉しそうに笑顔でそう言われ、顔を赤らめ俯く。既に彼女の身体から震えは消えていた。


「あの……。至らない点も多くご迷惑をおかけすることもあると思いますが、精一杯尽くさせて頂きますので、どうぞよろしくお願いします……」


「あ、こちらこそ。よろしく頼みます」


 綺麗に指を揃え、深々と頭を下げる奴隷に対し、胡坐の体勢でぺこりと頭を下げる主人。


 何とも不思議な奴隷と主人の関係が、今こうして始まるのであった。






「あの、それで、今宵はどうしましょう?せめて添い寝だけでもしましょうか……?」


「実に魅力的な提案だけど、多分俺の理性がもたないから……」


「そ、そうですか!分かりました!では、失礼します!」


「あぁ、待って待って」


 布団から飛び出し小走りで部屋を出ようとするセラを呼び止め、ジルは静かに呟いた。


「おやすみ。また明日」


 その言葉に、セラも蒼い瞳を輝かせ、「おやすみなさい」と返した。


 こうして初夜はお互いに清々しく終わりを迎える。





 ……筈だったのだが……。





(……くそ……。あの下着はダメだな……)





 最後の最後、部屋から出ていくセラの露になった尻が目に入ってしまい、しばらく悶々とした時間を過ごすことになってしまった御主人の苦労をセラは知る由も無かった……。





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