第4章

第1話 迷える悪魔を救え

 彼女の使命は、迷える子羊に救いの手を差し伸べる事。


「今日も良いお天気ですね」


 もう真夏も間近だというのに全身を静謐な黒の修道着に包んだ女性は、洗濯物の入った桶に井戸水を流し込みながら涼しい顔でそう口にする。


 この暑さも、この力仕事も、彼女にとっては全て神から与えられたありがたい試練であり、また、彼女も日々それらに感謝しながら使命を全うしている。


 彼女の名は『コルア・テメット』。レムメルの街の端(はずれ)にある小さな教会で日々人々の為に祈りを捧げる修道女である。


 透き通った肌に、花弁のように白く絹糸のように滑らかな頭髪。翠玉の淡い輝きを帯びた瞳に母性と慈愛の溢れる垂れた目尻は、正に聖職者に相応しく美々しい風姿であったが、神に仕える者にしては余りにも実り過ぎた背徳的な肉体は礼拝者の心をいとも容易く射止め、彼女を知る者からは『純白の女神』と讃えられている。


非公式の会員制ファンクラブも存在していた。


 コルアの朝は早い。陽よりも早く起き、冷水で身体を清めると修道服に着替え、祈りを捧げる。その後、洗濯及び教会とその周辺の清掃を済ませ、来訪者を迎える。


 そして午後になると、彼女は聖堂の隅にある小部屋へと入るのだ。


 この部屋は来訪者の懺悔を聞く場として利用されていたのだが、お節介焼きで博識なコルアが使っている内に、話を聞くだけでなく問題解決の糸口も提示するようになった。


それがいつしか『お悩み相談所』として噂が広まり、多くの民衆や冒険者が悩みを打ち明けに教会を訪れ、コルアはそれを解決に導いてきた。無論、他言無用である。


 高額な謝礼を提示する者も居たが彼女は頑として受け取らず、偶に金銭が送られてくることもあったがその場合は金を衣服と食べ物に変え、貧しい人々に恵んでいる。


「ふうっ」


 狭い相談室に入り、使い古した背もたれの無い木椅子に腰を下ろす。椅子は長年連れ添った相棒に挨拶するかのように静かに軋んだ。


 胸元の懐中時計に視線を落とす。相談所開放の時刻まで残り数分だ。しかし、定刻を前に相談所の戸は叩かれた。


「どうぞ」


 何の躊躇いも無く迎え入れる。現れたのは、背丈の有る隻眼の男であった。


「し、シスター。聞いてくれ。最近、毎日のように夢にアイツらが出てくるんだ。お陰で俺は毎日ろくに寝付くことが出来ない。どうにかならないだろうか?」


 余程参っているのだろう。部屋に入るなり泣き出しそうな声で吐露した。その屈強な獣人の男が戦いを生業にしてきた者であることは、身に着けている装備と身体中に刻まれた数多の傷で察しがついた。


 因みに、相談所の中は一枚の巨大な板で仕切られているがそれは魔具による幻影であり、彼女からは来訪者の姿が見えるようになっている。


 コルアはその纏まりの無い悩みに対し、ゆっくりと口を開いた。


「アイツら、とは、どなた様の事でしょうか?」


 とても穏やかで澄んだ声色は、男の荒れた心を優しく包む。


「お、俺が……。俺が今まで戦争で殺した奴等だ。そいつらが夜な夜な夢に出てくるんだ。きっと、俺を恨んで化けて出ているに違いない!」


 せきを切ったように過去の経歴をまくし立てる。その殆どが蛇足的内容であったが、コルアは彼が満足するまで小さく相槌を打ちながら耳を傾けていた。そして男が全て話し終えたのを見計らい、彼女は告げる。


「なるほど……。一つお聞きしますが、貴方には、彼らに対する謝意はほんの少しでもありますか?」


「そ、そりゃあ、まぁ。敵同士だったけど、同じ傭兵だったしな……。俺だって好き好んで殺したわけじゃねぇしよ……」


「でしたら、その殺められた方の墓を一つ一つ作り、祈りを捧げてみられては如何でしょうか。心からの謝意は必ず伝わります。そうすることで、彼らも、そして貴方の心もきっと解放されるはずです」


「……墓、か……。成程……」


「それと、ハサヤの実の種を細かく砕いたものを温い湯で毎晩飲まれることをお勧めします。あの種には深い眠りを誘う効果がありますので……」


「なんと!それは本当か!よ、よし、ならば言われた通りしてみよう。墓と、ハサヤの実の種だな!」


「ええ。貴方の心が救われることを祈ってますよ」


「お、おぉ……。ありがとう!シスター!」


 導きを得た元傭兵の男は、朗らかな声と共に相談室から姿を消した。


 その後も時にまばらに、時に密に人が訪れては導かれてゆく。彼女の相談所は陽が沈むまで開かれており、夏場になると陽が高くなる分対応も増え、疲労と心労もより一層溜まる。


 それもまた、彼女からすればありがたい試練であった。


(……ふぅ。今日はこの辺にしておきましょうか……)


 陽が彼方に沈み、教会も暗闇に覆われていた。脇に置いてあった水差しの水を乾いた喉に流し込み、白いハンカチに額の汗をそっと吸わせる。


相談所の入り口にお休みの札を掛けるべく、固まった身体を最小限の動きで解し、重たいお尻を浮かせた、その時であった。


「すいません……。まだ大丈夫ですか?」


 重たいノックに部屋が揺れる。来訪者のようだ。


(……あら。こんな時間に珍しい。旅の人かしら……?)


 町の住人ならここが陽が沈むまでの間だけと知っているが故の彼女の予想であった。コルアはもう一度座り直し、入室を促した。


「どうぞ」


 彼女は、自分がたった今告げた言葉を呪った。


「すんません。失礼します」


「………!!??」


 すんでのところで彼女は声を押し殺した。そして、聖職者でありながら自らの言葉を『呪う』という行為に及ぼされてしまった。


 しかし、それは事情を聞けば殆どの者が納得するであろう出来事。


 その日最後の来訪者は、漆黒の鎧に身を包んだ大男であった。


(れ……れれれれ!!??)


 教会に訪れたのは悪魔の名を冠する男。究極の善と究極の悪が薄い魔法障壁一枚を隔てて向かい合っていた。


 コルアはレッドデビルの事も彼がよくこの街に出没していたことも知っていたし何なら街を歩いていた時に遠くで見たこともあった。しかし、まさか、あのレッドデビルが自分の相談所に来ようなど夢にも思わない事であった。


(ど、どうしてここにレッドデビルが……?も、もしかして私を……!?)


 噂は聞いている。特に最近は自分の屋敷に奴隷を集めていると専らの噂だ。もしや、聖職者の自分を、いや、聖職者だからこそ汚してやろうと目論んでここに来たのだろうかと、悲惨な妄想が頭に押し寄せる。


「……あの~?シスター?」


 声。意外にも若く、そして軽い。


 コルアは背中を針で突かれたように我に返ると。慌てて小さく咳払いをし、腰を下ろした。シスターと呼ばれたことで彼女の中の使命感が押し寄せる恐怖を何とか抑え込んでいた。


(私は神に仕える身。決して相手が誰であろうと慈愛を以て……)


 ちらり。横目で壁一杯に迫った鎧の大男を一瞥する。


(じ、慈愛を……以て……)


 早くも決心が折れかけているシスター。


「あの~……。もしかしてもう終わりでした?出直した方が良いです?」


「いっ!いえっ!大丈夫、大丈夫でひゅっ!?」


 いきなり声を上げてしまったせいで舌を噛んでしまった。これは自分への罰だと言い聞かせながら深呼吸を一つ。


 相手に見られていないにも関わらず、意地で満面の笑みを作って見せた。


「ん……、こほん。大丈夫ですよ?」


 それにしてもコルアにとって意外であったのは、レッドデビルの声と振る舞いである。


 古びた廃城に住まう老獪のような野太い声と野に巣食う魔獣のような暴虐な振る舞いをイメージしていたのだが、今こうして目の前にいる彼の声色はとても若々しく軽やかで、そして謙虚であった。


 もしかしたら本当はとても紳士的で、優しい人間なのかもしれない!


 彼女の人を想う優しさとポジティブさが、自分に言い聞かせるようにそう結論付けさせていた。


「では、懺悔、若しくは悩みをどうぞ」


「めっちゃエッチな奴隷が欲しいんです」


 結論は一瞬で消し飛んだ。身の危険を感じた。


「わ、わわわわわ私は聖職者ですっ!この身は神に捧げると誓っております!」


「え?…………あ!いやいや!違います違います!誤解ですよ!まぁ、言い方が悪かったというか、話し方が悪かったですね。ええと、実は俺、その~……。何と言いますか……。そのですね……」


 どうやら自分が目的というわけではなさそうだ。あのレッドデビルともあろう怪物が悩みを言い淀んでいる光景に彼女の母性がちくりと刺激された。


「大丈夫ですよ。神に誓って、貴方の言葉は私以外の耳に入ることはありません」


「で、ですよね。それじゃあ……。実は俺、エッチなことが苦手でして……。女性の身体を触るどころか、肌を見るのも苦手なんです。いや、嫌いじゃないんですよ?寧ろエッチな事は大好きです。大好きなんですが……。どうもこう、女性を前にするとドキドキが止まらないというか、恥ずかしくなるというか……。そのせいで、未だに童貞なんですよね、俺……」


 コルアにとって今日ほど神への誓いを無碍にしたいと思った日は無かった。


(ど、どういうことなの!?確かにあのレッドデビルよね!?娼婦百人切りとか性欲の権化とか言われてるあのレッドデビルよね!?)


 疑問が更に疑問を呼びコルアの口が固まる。晒した秘密に対する返答が無い事に悪魔は少し狼狽えていた。


「あ、あの~。や、やっぱり変ですかね?俺……」


「いっ!いえ、決してそんなことはありません。少し意外だっただけです。とても奥ゆかしく、素敵なことだと思います」


「…………ですか?」


(……あ!しまったあぁぁぁぁ!!!)


 心の中で叫ぶ。自分が誰かも分からないのに『意外』などという言葉が出る。訝しまれて当然である。


「いえ、私は声だけで大体その方がどんな人か想像できるのです」


「ははぁ、成程!何百人もの声を聴いてるとそういう能力が身に着くものなんですね!」


「えぇ……。素敵で勇ましい声でしたので、きっと女性経験も豊富なのだろうと思っていましたもので……。大変失礼しました」


「いえいえ!そう聞こえます?俺の声。照れちゃうなぁ」


 悪魔はチョロかった。聖職者が悪魔を騙すという正反対の構図に、コルアも心の内で神に懺悔を述べる。


「実は俺、奴隷のハーレムを作ろうと思ってるんです」


「はぁ……」


 開きっ放しの口から出た、何とも気の抜けた返事であった。


「でも、そういうエッチな事に耐性が無いから困ってるんです。どうすれば良いのでしょうか。多くの知識と経験をお持ちと高名なシスターからならきっと素晴らしい助言をもらえると思って今日ここに来ました」


(私、生娘なんですが……)


 当然ながらそういう手ほどきを出来る知識も無ければ経験も無い。しかし、なんとか使命は果たさなくてはならない。


 そこで彼女は昔、まだこの教会に来たばかりの頃、今は亡き神父から受けていたセクハラを思い出し、それを材料にして助言をひねり出した。


「そうですね……。小さなことから始めてみては如何でしょうか」


「小さなこと……?」


「はい。例えば、お、おしりを軽く叩いてみたり、着替えを覗いてみたり。そうやってスキンシップを取ることで、少しずつ女性に対する免疫を付けていきましょう。焦りは禁物です」


「なるほど!流石シスター……。素晴らしい助言ありがとうございます!早速試してみます!」


「あ、いえいえ……。神の御加護を……」


 興奮気味に出て行くレッドデビルを見送る。扉が閉まった途端、場の空気が一気に緩んだ。コルアの背に大量の汗が滲み、息も荒くなる。彼女が真っ先に思ったこと、それは、『助かった』。であった。


(し、死ぬかと思った……)


 水差しを握り、勢い良く喉を潤す。手の甲で口を拭う姿にいつものお淑やかさは見受けられない。


「……」


 しばらくして落ち着きを取り戻したコルア。恐怖と安堵が去った後、禁欲を尊ぶ彼女の胸に去来したのはとある邪な『欲』。


 彼女は慌てて立ち上がると裏庭にある井戸へ足早に向かい、桶になみなみと水を流し込むと、頭巾を着けたまま顔を突っ込む。そして、声にならない声を腹の奥底から放つのであった。


 それぐらいはきっと、神も御赦しになるだろう。

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