4.犯した罪に震えながら

 時が止まったようだった。腕が震え、酷く寒気がする。呻き声があがり、苦しそうな息遣いがわたしの耳に届いた。じっくりと時間をかけて、わたしは冷静さを取り戻した。目の前にはヴァニーユがいる。赤い目をこちらに向け、その手をわたしの頬に伸ばしてきた。恨めしそうな表情のまま、彼女はわたしの頬を撫でる。首を掴もうとするも、手に力が入らないようだった。

「マド……レーヌ」

 名を呼ばれ、わたしは我に返った。そして、はっきりとした意識の中で、力を込めて武器を抜いた。

「う……サ……サヴァラン……様──!」

 鈍い声を出しながら、ヴァニーユはその場に倒れた。腹部を抑えながら、地面に寝ころび、何度も主人の名を呼んでいる。じわじわと流れ出すのは彼女の血だ。大量の赤色に、わたしは眩暈を感じてしまった。やったのは、他ならぬ自分だ。武器を握り締めたまま、わたしは立ち尽くしていた。ビスキュイが意識を取り戻したのはその時だった。はっと起き上がった彼は、目の前の光景にとても驚いていた。しかし、木の棒を持ったまま立ち尽くすわたしの姿を見ると、瞬時に状況を理解したのだろう。すぐに立ち上がって、わたしのもとへとやってきた。

「マドレーヌ」

 小声でわたしの名を呼ぶと、彼は強い口調で言った。

「君がやっつけたの?」

「わ……わたし……」

 息を飲みながら、わたしは狼狽えることしか出来なかった。やってしまった。そんな思いが遅れてこみ上げてくる。それは、やっつけたという達成感ではない。やってしまったという恐怖だった。さっきまでは生きるか死ぬかの瀬戸際だった。しかし、終わってしまえば新たな恐怖が押し寄せてきた。サヴァランの愛玩妖精を手にかけてしまった。その罪は、どれだけ重いものとなってしまうのだろう。

 食べられそうになったから、身を守っただけ。そんな言い訳が、人間たちの世界でどれだけ通用するだろう。フィナンシエのことが頭を過ぎると、ますます怖くなってしまった。だが、ビスキュイはわたしに語りかけてきた。

「マドレーヌ、落ち着いて。ひとまずここを離れよう」

「わたし……わたし……!」

 怯えるわたしの肩を抱き、ビスキュイは言った。

「大丈夫だよ。サヴァラン様の……人間たちのことなんて気にしちゃだめだ。君がやらなかったら、僕たち二人とも死んでいたんだから。だから、もう行こう!」

 強い口調でそう言って、ビスキュイはわたしの手を引っ張った。わたしは引っ張られるままに、彼に続いてその場を立ち去った。恐らくヴァニーユはまだ生きている。しかし、長くはないかもしれない。

 殺してしまった。わたしが。この事がサヴァランに知られたら、その後はどうなってしまうのだろう。ずっとバレないかもしれない。わたしがやったなんて誰も気づかないかもしれない。けれど、わたしは怖かった。サヴァランはわたしを疑うかもしれない。そうでなくとも、わたしはずっとフィナンシエたちに対して秘密を抱えて生きていくことになるだろう。

 果たしてそれに耐えられるだろうか。それに、ヴァニーユが死ななかった場合はどうなるのだろう。彼女は証言するだろう。わたしがやったのだと。ひょっとしたら、口も達者にわたしがいかにも凶悪な妖精であることを主張してしまうかもしれない。その口論に、わたしは勝てるだろうか。その過程で、フィナンシエの愛を失わずにいられるのだろうか。

 ああ、考えれば考えるほど、未来が暗く冷たくなっていく。そんな状況下で唯一といってもいい希望は、ビスキュイの手の温もりだった。彼に引っ張られながら走っているうちに、気持ちは段々と落ち着いていった。先の事なんて、今ここで考えたって分からない。なるようになるしかないし、過ぎたことは取り返しもつかないのだから、いつまでも怯え続けるわけにもいかなかった。

 進むべき道はどこかにあるはず。諦めなければ、どこかに抜け道があるはずなのだ。フィナンシエに愛想を尽かされたとしても、彼の配慮もむなしく人間たちによって悲惨な未来が用意されたとしても、どこかに必ず機会はあるはずだ。そうした粘り強さが、しぶとさが、グリヨットたちにはある気がした。そして、彼らにあるのならば、わたしにだってあるはずだ。それを自覚したいからこそ、わたしは行かなければならなかった。フランボワーズのもとへ。危機に瀕した仲間を救いに行った彼女の姿を目にしたかった。その姿を見たからと言って、何が変わるというのだろう。いや、変えるのだ。変えるための力を得る。そのために、わたしは目撃しなければならなかった。

 ビスキュイに引っ張られながら、わたしは黙々と進み続けた。王立歌劇場。その場所を目指して歩き続けているうちに、次第に恐怖は薄れていった。代わりに芽生えるのは高揚感だった。収容所を襲撃し、仲間を救ったことのある彼女への希望と不安。彼女ならばきっと大丈夫と信じている反面、本当に大丈夫だろうかという心配が浮かんでくる。だからこそ、傍で見守り、祈りたかった。わたしが今後、どのように生きるかによらず、同じ妖精として祈りたかった。仲間を救い、希望と共に飛び立って欲しい。新しい王国で、姉のクレモンティーヌと共に希望の象徴であり続けて欲しい。そのためにも、フランボワーズの戦いを見届けなくてはならなかった。見せつけて欲しい。わたしの胸に沁みついた、このつまらない不安を嘲笑うような姿を。

 そんな思いと共に路地裏の道を進み続け、わたし達はとうとうたどり着いた。複数の妖精たちが縛られ、曝されている、王立歌劇場の広場へと。

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