5.裏切り者の名前

「謝ることはない」

 夜風よりも冷たい声でサヴァランは言った。

「もともとお前には無理をさせている。本当ならば安全な檻の中で大事に飼ってやらねばならないというのに」

「そんな事はございません。わたくしは望んでこのお役目を果たしているのですから」

 格子扉越しに会話するその姿を、わたしは懸命に見つめていた。サヴァランが手に持っているランプの灯りだけでは、相手の顔ははっきりとしない。それでも、わたしはもうこの時点で、彼女の声に聞き覚えがあった。しかし、信じたくなかった。あの声の主が、本当にあの妖精だなんて思いたくもない。声が似ているだけだったらどんなにいいか。間違いだと思いたくて、わたしは必死になっていた。そんなわたしの手をビスキュイがぎゅっと握ってきた。

「あれって……あの妖精って……」

 そう呟く彼の視線もまた、サヴァランたちに釘付けになっている。彼にも分かったのだろう。あの声は、聞いたことがあるものだと。サヴァランも相手の妖精もこちらに気づいていないようだ。密やかに会話は続いていた。

「お前の気持ちはとてもありがたいよ」

 いつもの印象からして信じられないほど優しい声でサヴァランはそう言った。

「だが、逃したというオスの蝶は気がかりだ。生きて仲間のもとにたどり着けたならば、お前の正体もいずれ野良妖精どもに知られてしまうだろう。そうなれば、野蛮な彼らのことだ。お前の美しい身体を八つ裂きにするかもしれない。そうなれば、私はどうすればいい。バルケット亡き今、お前だけが癒しだと言うのに」

「ご安心ください、ご主人様。逃がしたと言っても、あの怪我では長くないでしょう。それに、わたくしはご主人様がお思いになるほどか弱い妖精ではありません。そう易々と蝶などにやられはしませんよ」

「そう信じたいね。だが、バルケットはその油断が命取りになった」

 片手で顔を覆いながら、サヴァランは呻いた。アンゼリカのことだ。彼女の言ったことを思い出せば思い出すほど怒りがわいてくる。しかし、今は堪えるときだ。息を飲んでいると、扉の向こうにいる妖精がサヴァランに妖しく声をかけた。

「アンゼリカはもうおりません」

 格子扉越しにサヴァランの手を掴むと、彼女は慰めるように囁いた。

「彼女の最期はご報告した通りです。彼女がご主人様にした仕打ちの全てを晴らしてやりました。バルケットのことは残念でしたが、彼女が口にするはずだった味は、間違いなくこのわたくしが堪能いたしました」

「美味しかったと言っていたね。それは良かった。期待通りだ。だが、アンゼリカ、あれは良くない蝶だった。今でも妖精売りが憎いよ。あのような凶暴な蝶を出品するとはね」

 サヴァランは恨みを込めたため息を漏らした。

「いや、恨むべきは違う人物か。アンゼリカを買う羽目になったのは、フィナンシエ君──全部あの若造のせいだ。まったく、若さとは恐ろしいものだよ。蝶の妖精市でこの私に競りかけてくるような者がいるなんて。いや、競りかけるのは別にいい。しかし、いくら惚れた婦人の前だからといって譲りもしないとはね」

 彼らが何の話をしているのか、痛いほどわかった。気づけば手をぎゅっと握っているのはわたしの方だった。ビスキュイがいなかったら、耐えられなかったかもしれない。そんなわたしに追い打ちをかけるように、扉の向こうの妖精は言った。

「マドレーヌ」

 はっきりと名を出され、いよいよ寒気が襲ってきた。

「ご購入されるはずだったのに、横取りされたのでしたね」

「その通り。事前に配られたカタログで目にした時から気に入ってね。従順さのクロスが素晴らしくてね。あの子ならばバルケットへの贈り物にぴったりだっただろう」

「さぞ無念だったでしょう。予定が狂わされた挙句、あの悲劇となると」

「ああ……。せめて、アンゼリカが大人しく食われてくれれば違ったかもしれない。だが、バルケットは死に、フィナンシエ君のもとでマドレーヌ嬢はぬくぬくと生き続けている。それが私はどうしても許せないのだよ。オークション会場で私に恥をかかせただけでなく、この仕打ち。愛する妖精を失う痛みをあの若造にも味わわせてやりたい……」

 淡々と語る彼らの会話に、わたしは眩暈を感じてしまった。とんでもない話を聞いてしまった。

「お任せください」

 サヴァランの妖精は言った。

「実を言うと、彼女のことも狙っておりました。ご主人様はその血統背景から従順さに期待なさっておりましたが、どうやら彼女は人々の期待を裏切った性質を持っているようでして。度々、フィナンシエ様のもとを逃げ出しては、余計な口出しを野良妖精どもにするのです。そのせいで、目障りな野良妖精どもは危険を回避し続けている。それに、アンゼリカからも例の話を聞かされていたようですよ。生かしておいてもご主人様の為にはなりません。他の厄介な野良たち共々、わたくしが始末しておきましょう」

 迷うことなく彼女はそう言った。ああ、これは悪夢なのだろうか。色気も含んだ妖艶な声で、あんなことを言うなんて。その妖精の言葉にサヴァランもまた低く笑うと、ゆっくりと頷いて言ったのだった。

「頼んだぞ、ヴァニーユ」

 ついにその名が呼ばれ、わたしもビスキュイも震えてしまった。やはり、そうだった。聞き間違いなんかではなかった。あの声はヴァニーユの声に間違いない。間違いではなかった。しかし、そんな事があるだろうか。ヴァニーユはか弱い花の妖精であるはずなのに。今だって、野良妖精の仲間として祈り場で暮らしているはずなのに。動揺しているうちに、サヴァランたちの会話が終わった。

 ヴァニーユは立ち去り、サヴァランもまたこちらに戻ってくる。わたしはビスキュイと共に慌てて周囲を見渡し、そのまま傍に置かれていた椅子の下へと隠れた。暗がりの中で息を殺している間に、サヴァランはすぐ傍を素通りしていく。足早に階段を目指していき、そのまま駆けあがっていった。

 どうやら、ついにわたし達の存在には気づかなかったらしい。その足音が遠ざかったことを壁に手を突いて確認すると、わたしはすぐにサヴァランたちが会話をしていた格子扉の場所を目指した。劇場の勝手口なのだろう。二重扉になっていて、外側の扉だけが開けられている。しかし、この格子扉には鍵がかかっているようだ。中からどうにか外を覗いてみたが、見えたのは上へと続く階段と辛うじて見える、外灯の光だけだった。

 ヴァニーユの姿はもうない。きっと、グリヨットたちの元に戻ったのだ。グリヨットたちは恐らく知らない。ヴァニーユが何者であれ、アンゼリカを殺した犯人だと知らないままだ。

「行かないと」

 そう呟くと、ビスキュイが再び手を掴んできた。

「駄目だよ」

 彼はそう言った。

「今の話、聞いていたでしょう? 危険だよ」

 その青ざめた顔に、わたしもまた恐怖を思い出してしまった。サヴァランがフィナンシエの事を恨んでいる。その恨みの一環として、わたしの命まで奪おうとしている。これまでのヴァニーユとの交流を思い出せば思い出すほど、冷や汗が出てしまう。しかし、わたしは恐怖を払いのけて首を振った。

「でも知らせないと。グリヨットたちはきっとまだこの事を知らないはずだから」

「で、でも──」

 ビスキュイはわたしの肩を掴んだ。その力強さに、わたしは驚いてしまった。

「それなら、せめて僕に行かせて。マドレーヌはここにいてよ。フィナンシエ様の傍から離れないで。だって、さっきの話、聞いていたでしょう?」

「わたしを殺すって話?」

 はっきりと訊ねると、ビスキュイは息を飲んだ。

「そんなの怖くない。むしろ、ビスキュイを一人で行かせる方がわたしには怖いよ。ヴァニーユはババまで殺しちゃったんだよ? ビスキュイがいくら男の子らしくなったって言ってもね、相手は蝶よりずっと強い肉食妖精なんだよ。ビスキュイだって、とっくに狙われているかもしれない」

「僕だって、そんなの怖くない……」

 ビスキュイは言った。だが、わたしの肩を掴む力は少しずつ弱まってきている。身体を震わせている彼を見つめ、わたしは少しだけ冷静になった。きっと同じだ。わたしがビスキュイを一人で行かせられないと思うのと、ビスキュイがわたしを活かせられないと思うのと、たぶん、同じだろう。

「じゃあ、せめて一緒に行こう? 一緒に行って、一緒に伝えよう? それならいいでしょう?」

 わたしの言葉に、ビスキュイがはっと顔をあげた。同じ菫色の目がわたしの目を見つめてくる。そして、彼は渋々ながらも、しっかりと頷いてくれた。

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