3.彼女の身に起こった事

 アンゼリカの命が奪われたその時の詳細を知る蝶や花はいない。いるとすればそれは、今はもう声の届かぬところで行ってしまったアンゼリカ自身と、彼女の命を食い荒らした犯人だけ。それは取り返しのつかない悲劇だった。そして、その経緯は誰もが不安になるものだった。

 わたしと別れた時と同じく、アンゼリカはずっとあの寝室にいた。自ら移動することは殆ど出来ず、誰かに攫われたとしか思えない。しかし、ずっと祈り場にいたというルリジューズたちが悲鳴を聞くことはなかった。夜も更けて、ノワゼットが着替えを渡しに行こうとしたときに、事件は発覚したという。

「いつからいなくなっていたのか、わたくし共には分かりません」

 ヴァニーユは力なく言った。

「ノワゼット様が取り乱した様子で祈り場を駆けまわるまで、本当に誰も聞いていなかったのです。気づいたら彼女はいなくなっていた。何処を探してもいない。すぐにフランボワーズ様にも連絡を入れて、たくさんの妖精たちに協力してもらってアンゼリカ様を捜したんです。日も落ちて、暗い町中を必死になって。わたくしも同じでした。すぐに見つけないと、と彷徨い続けました。そして、ようやく見つけたと思ってみれば──」

 彼女は死んでいた。決して自然死ではない。食い殺されていたのだ。

「わたくしもその姿を見てしまいました。あまりに酷いあの有様を。服は引き裂かれ、あれほど美しかった身体の殆どが食べ尽くされて……けれど、顔だけはいつも以上に美しかった。だから、アンゼリカ様だと分かってしまったんです。分かりたくなかった」

 嘆きながらヴァニーユは顔を覆う。祈り場に血の臭いはしない。誰かが死んだなんて嘘のようだ。しかし、本当のことなのだ。本当にアンゼリカは食べられてしまった。もう話すことは出来ない。あれ以上、仲良くなることも出来ない。現実を突きつけられ、わたしもまた顔を覆うしかなかった。

「ご遺体は昨晩のうちに郊外の林の中に埋葬されました。ジャンジャンブル先生が切った一束の御髪だけをルリジューズ様がお持ちです。新しい王国では、花と蝶のための正式な墓地を作っているそうですが、そこに埋葬するまで保管なさるのだそうです」

 では、もうその死を実感する機会もない。無残に食い荒らされているというのなら、その姿はむしろ見ない方がいいのかもしれないけれど、アンゼリカが死んだという実感がますます持てなかった。疑う余地はもうない。けれど、まだまだ疑いたかった。生きているかもしれないという可能性を、どうしても捨てられなかった。

「フランボワーズ様は今、アンゼリカ様を襲った犯人を捜しております。肉食妖精が野放しになっているのであれば、犠牲者はアンゼリカ様だけでは済まないでしょうから」

 その言葉にわたしは顔をあげた。恐ろしいことだ。ただでさえ平穏とは程遠いこの世界がさらに脅かされている。どうしてだろう。どうして妖精たちはここまで追い詰められなければならないのだろう。その理不尽さにわたしは心が痛くなった。

 どうしてアンゼリカだったのだろう。やっと居場所を見つけたはずだったのに。ただでさえサヴァランのもとで酷い目にあった彼女が、どうしてそれ以上の不幸に見舞われなければならなかったのだろう。そこにどんな理由があろうと、わたしは納得がいかなかった。

「ああ……アンゼリカ……」

 泣き出しそうな思いでその名を口にすると、隣にいたビスキュイがそっとわたしの背を支えてくれた。その好意に甘え尽くして、わたしは世の不条理さを呪った。

 嘘だったらよかったのに。誤りだったらよかったのに。もっと仲良くなりたいと願った昨日のことが嘘のようだ。これからは希望ある未来があると信じたことが嘘のようだ。命からがら逃げだして、ただ必死にもがいていただけの彼女を待ち受けているものがこんな未来だなんて、どうして納得がいくだろう。あまりに残酷ではないか、と。

 一度涙が流れだすと、あとはもう止まらなかった。せめて静かに泣いていると、祈り場の奥から足音が聞こえてきた。廊下から顔を出してきたのはノワゼットで、ヴァニーユと共に話しているのがわたしとビスキュイだと気づくとすぐに顔をしかめた。

「まあ、声が聞こえると思ったら」

 そう言って、ノワゼットは近寄ってきた。間近で見ると、寝不足なのかその顔色はだいぶ悪かった。彼女は黒い蝶の翅を揺らし、わたし達に向かって言った。

「来てはならないと伝えたはずなのに」

 ノワゼットのつんとした言葉に、ヴァニーユが柔らかく言った。

「ちょっとした伝達ミスがあったようです。心配なさらずとも、帰りはババ様が送ってくれると言っていました」

「そう。それなら仕方ないわね」

 ノワゼットはため息交じりにそう言って、泣き続けているわたしの肩にそっと触れた。

「それならここでじっとしているのよ。あなた達を本気で心配して、その首輪をくれたご主人様たちを悲しませたくないのなら尚更」

 その言葉に棘はあるが愛情もある。痛みと癒しの両方を貰いながらどうにか涙を止めようとしていると、傍でついてくれていたビスキュイがノワゼットを見上げた。

「ノワゼット」

 彼は控えめに、だが、はっきりと訊ねた。

「ルリジューズはいる? お願いがあるの。どうか、アンゼリカの為に祈らせて」

 彼の訴えを耳にして、わたしはそっとノワゼットの顔を窺った。彼女は疲れ切った顔をしていた。きっとわたし達の要求も、正直言って煩わしかったのだろう。しかし、しばらくその表情を見せたかと思えば、呆れたように息を吐き、彼女は頷いてくれた。

「分かった。分かったわ」

 苛立った野良猫が尻尾を振り回すように背中の翅を動かすと、ノワゼットはわたし達に告げた。

「今呼んでくるから待っていて」

 そうして、ノワゼットは足早に去っていった。

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