10.宵闇色の銀狐

 フィナンシエの屋敷を騒がせた大脱走劇以来、キュイエールは事あるごとに外の世界の恐ろしさをわたしに言い聞かせるようになった。あの日以来、事あるごとにわたしを叱るようになったのはフィナンシエの屋敷のどの使用人もさほど変わらなかったが、あの夜、キュイエールだけは感極まって泣いてしまったのだ。延々と説教が続いたかと思えば、最後に彼女はわたしにそっと今もずっと癒えずにいるという心の傷を明かしてくれた。それは、キュイエールが幼い頃の話だった。彼女によれば、この太陽の国に生まれた全ての妖精を愛する人間たちが、一度は経験したことのある恐ろしく、辛い、別れの話だ。

 彼女曰く子供というものは無垢な存在で、人間と妖精が立場の違う生き物だということをあまり理解していない。だから、心が純粋な人間の子供はグリヨットのように誰にも支配されずに誕生した妖精たちと、遊び友達になることも珍しくないらしい。それは、グリヨットの事を思い出せば納得のいく話だった。彼女ならばきっと、王都のあちこちで遊ぶ純粋無垢な人間の子供たちと笑顔で接することが出来るだろうから。しかし、その楽しい出来事が、悲しい末路に繋がることもこの国では珍しくはない。

 キュイエールも幼い頃に、そんな経験があったという。ひょんなことから仲良くなった愛らしい妖精の子が、ある日突然、怖い顔をした大人に手を引かれて連れ去られ、そのまま消息不明になってしまったのだ。すぐにキュイエールは身近な大人にそれを伝えたが、大人たちは悲しそうな顔をするばかりで、誰も妖精の子を取り戻してはくれなかった。キュイエールはその後、母親に友達になった妖精の子のために祈るように言われ、その子がどうなってしまったのかを察したのだという。

「この国ではね、誰かに通報された野良妖精は収容所に連れて行かれてしまうの。そこで待っているのは決して明るい未来じゃないわ。それだけじゃない。王都の片隅にはひょっとしたら誰かが飼っていた肉食妖精たちが逃げ出して、隠れ住んでいるかもしれない。妖精を虐待する悪趣味な人間もいるかもしれない。とにかく、外の世界は妖精にとって危険なの。マドレーヌはそんな目に遭っていい妖精じゃないでしょう。そうに決まっている」

 キュイエールにさんざん言われて、わたしも参ってしまった。とんでもない罪だったことはよく分かった。しかし、それならそれで、わたしはどうすればいいのだろう。外の世界が危険であることはよく分かったけれど、だからと言って知ってしまった仲間の世界のことをきっぱり忘れてしまうなんてことも出来なかった。ただ、わたしが酷い目に遭うことを想像し、涙を流してしまうキュイエールの姿を見てしまうと、少なくとも明日や明後日に同じ罪を犯すなんてことは出来そうになかった。

 カモミーユのための祈りはまだまだ足りない。グリヨットやルリジューズたちの話ももっと聞きたいし、もう一度、フランボワーズの姿をこの目に焼き付けたいという願望もある。だが、それはキュイエールの涙を無視してまで叶えるべきものではない。わたしは素直にそう思い、その後の数日間はこれまで以上に模範的な良血蝶々であり続けた。

 がフィナンシエに会いに来たのは、そんなある日のことだった。浮かない顔をしたキュイエールに手を引かれ、何の説明も覚悟もなく入った応接室でわたしはその不意打ちをもろに食らってしまった。

「やあ、これはこれは。久しぶりにお目にかかれて光栄だ」

 わたしを見るなり愛想笑い一つもせずにそう言ったのは、一年ちょっと前にオークション会場で目にしたきりの紳士サヴァランだった。記憶の通り、銀狐の毛並みのような宵闇色の髪がわたしの目に焼き付く。だが、その暗い色よりも同じく夜を思わせる色の目がわたしには怖かった。肌が異様に白いことも記憶の通り。だが、こんなにも厳しい顔をしていただろうか。言葉に反してちっとも友好的なものを感じさせない態度で、サヴァランは言った。

「あの時に買いそびれた妖精に再び会えるとは嬉しいものだね。蝶の妖精はこれまで何度も競り落としてきたのだが、いずれも早死にさせてしまったのが嫌われたのかね。ヴェルジョワーズ君からお声をかけてもらったことがないのでね」

 自嘲気味に笑ったが、それすらもこちらを嘲笑しているように見えるのは何故だろう。答えるべき言葉も見つからず困惑していると、フィナンシエが小さく声をかけてきた。

「マドレーヌ。こちらへ」

 フィナンシエの隣だ。サヴァランの真正面になるが、一人で突っ立っているよりかはいくらか心強いだろう。わたしは有難く足早に駆け寄ると、そっとソファに座った。座ってすぐにサヴァランの肉食獣のような視線がわたしを突きさしてきた。まともに目を合わせることも躊躇われ、最低限、失礼のないようにわたしは目を伏せていた。忠犬のようにじっと大人しくしていると、やがてサヴァランは低く笑った。

「素晴らしい。血統背景の通り、ずいぶんと従順な蝶だね。いい買い物をしたね、フィナンシエ君。君があの日、あの会場にいた事を悔やむよ」

「そういえば、サヴァランさん。あなたは確か、この子に代わりに別の蝶を購入されていましたね。あの子は元気にお過ごしですか?」

 世間話の一環としてフィナンシエはさらりと問いかけたが、サヴァランはその問いを受けて無表情となり、静かに茶を飲み始めた。黙ったまま時間が過ぎ去ると、サヴァランはカップを置き、まるで聞こえなかったかのように話をそらしてしまった。

「フィナンシエ君、今日は大切な話があって来たのだ」

 どうやら先ほどの問いには答えてはくれないらしい。そこに不穏なものを感じてしまう中、サヴァランは淡々と告げた。

「忠告だよ。その従順なはずのマドレーヌ嬢が逃げ出したという話を耳にしたのでね。風の噂では、野良妖精にそそのかされて王都の裏通りを彷徨っていたという話もある。君が信じるかどうかは自由だがね。しかし、真実がどうであれ、妖精を抱える愛好家であるならば耳に入れておいた方がいい」

「何でしょうか」

 フィナンシエが慎重な態度で問いかけると、サヴァランは怪しく微笑んだ。

「つい昨日の話だ。妖精収容所が襲撃される事件があった」

「収容──」

 その単語にフィナンシエの表情が一気に曇る。ちらりとわたしを見つめ、すぐにフィナンシエはサヴァランを咎めた。

「サヴァランさん、申し訳ないが、この子の前でそういう話は──」

 しかし、サヴァランは全く気に留めずに続けた。

「いいから聞きなさい。職員が数名怪我をして、収容されていた妖精たちが逃げ出したのだという。お陰で収容所は大騒ぎだよ。どうも計画的な犯行のようなのだが、目撃者によると犯人は人間ではなかったそうだ。襲撃犯を取りまとめていたのはグロテスクなほど美しい蝶の翅を持った野良妖精の女で、木の槍のような武器を手に人々を襲ったのだという。その形相はまるでペシュの再来だったと」

 彼の話を聞いて、わたしは顔をあげそうになってすぐに俯き直した。この動揺を彼に察されるのが怖い。だが、生まれたのは動揺だけではない。わたしは心の中で確かな喜びを感じていた。思い出すのは祈り場の庭で聞いたあの演説だ。成功したのだ。フランボワーズが囚われていた妖精たちを救い出した。そのことにわたしはまずホッとしていた。けれど、状況はあまり良くないこともまた確かだった。

 サヴァランは言う。

「野良妖精の数が増えるのも問題だが、人間を襲ったとなれば大問題だ。それも、立派な蝶の翅を持つ妖精だなんて。そこで、今日より野良妖精狩りが強化されることとなった。通報がなくとも見回り、目についた野良は捕らえて収容所に入れ直すのだと。いいかね、フィナンシエ君。悪い事は言わない。愛する妖精の管理を見直したまえ。もしも姿が見えなくなったら、すみやかに収容所に連絡を入れるように。収容された妖精が、どのくらいの時間で処分されるか聞いておくかね?」

 わたしは俯いたまま震えていた。きっとわざとだ。サヴァランはわざとわたしの前でこんな話を言っているのだ。そんな悪意はフィナンシエにも感じ取れたのだろう。彼は咎めるようにサヴァランを見つめ、その口を開いた。

「サヴァランさん、あなたって人は」

 だが、それ以上、何かを言わせる前にサヴァランは口を開いた。

「忠告は以上だ。悲しみたくなければ参考になさい。高価な妖精はちゃんと首輪をして、鍵付きの檻で大事に飼育するものだということを君も学びなさい」

 その冷たい言葉に、わたしは勿論だがフィナンシエまで押し黙ってしまった。隣にいながら我が主人の怒りの感情が伝わってくる。だが、フィナンシエは冷静な大人でもある。サヴァランと敢えて争うような姿勢は見せなかった。わたしの方はというと、実のところ内心それどころではなかった。どうしよう。サヴァランの忠告が全て真実であるならば、影響を受けるのはグリヨットたちだ。それだけじゃない。もしも妖精収容所を襲った犯人──すなわち、フランボワーズが人間たちに特定されてしまったら、彼らはどうなってしまうのだろう。

 考え始めるとどっと不安が押し寄せてきた。そして、わたしはある結論に至ったのだった。

 ──伝えなくては。

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