8章 蝶々たちの旅立ち

1.日陰の迷宮

 フランボワーズが向かったのは、王立歌劇場の正面にある広場であるらしい。その場所ならばわたし達にも分かる。お行儀のいい良血妖精ならば、せいぜい馬車が通れる道しか分からなかっただろう。しかし、生憎、わたしもビスキュイもお行儀の悪い妖精になって久しい。光の当たらないこの迷宮もまた、庭のようにするすると歩むことが出来ていた。

 初めてここを通った時はあんなに怖かったのに。今は逸る気持ちでいっぱいだ。フランボワーズが無事に仲間たちを救えるその瞬間を見届けたい気持ちでいっぱいだった。けれど、路地裏の迷宮はそんなわたし達に牙をむいてきた。ここで生まれ育ったグリヨットたちならばともかく、馴染んで一年も経っていないわたし達が我が物顔で歩こうなんて無謀だったのだろうか。

 迷いなく、と言った傍から、わたし達はいつの間にか道を逸れてしまっていた。

「ああ、しまった! こっちじゃない!」

 ビスキュイの声に、わたしもまた道を間違ったことに気づいた。幸いなことに、どこで間違えたかは分かっていた。一度どちらへ進むか迷った紛らわしい一角だろう。そこまで引き返せば、正しい道に戻る事が出来るはず。そう思っていたのだが。

「急ごう! 早く行かないと、間に合わないかも──」

 そう言いながら、ビスキュイの手を引っ張って振り返った直後、心臓を貫かれるような衝撃に見舞われた。道を塞がれていたのだ。人間ではない。妖精に。一見すれば花の妖精に見える彼女は、蜜の香りも漂わせずにそこに突っ立っていた。決して、見覚えのない人物ではない。出来れば会いたくなかった顔がそこにあった。

「ヴァニーユ……!」

 ビスキュイがその名を呼び、身震いする。対するわたしは声が出なかった。ビスキュイの手をぎゅっと握り、密かに後ずさりすることしか出来なかった。ヴァニーユは、優雅に笑いながら道を塞いでいた。小奇麗な衣装も、美しい白い髪も、かつて祈り場で目にした印象とだいぶ違う。こちらが本来のヴァニーユなのだろう。サヴァランに十分愛されていると分かる姿でわたし達の前にいた。

「久しぶりね、二人とも」

 親しみでも持っているかのように、彼女は言った。

「まさかご主人様同士がややこしい話をしている間にも、脱走を図るなんて思わなかった。とても勇気がある蝶々たちなのね。でも、いけないわ。それだと、せっかくあなた達を守ろうとしている若きご主人様たちの気持ちが台無しよ。もっとも私としては、それでいいのだけれど」

 くすりと笑う彼女は、当然ながら道を譲るという気がないらしい。嫌な予感がする。ただ意地悪をしているだけだとどうして思えよう。一度は本気で殺されそうになった相手だ。怖くないはずがなかった。

「そこを退け!」

 怒りを込めてビスキュイが怒鳴った。しかし、声の威勢だけでは捕食者には通用しないらしい。ヴァニーユは面白がるように笑って、むしろわたし達に近づいてきた。

「来るな! 止まれ! 止まらないと……」

 怒鳴るビスキュイの手を引っ張りながら、わたしは必死に後退していった。恐ろしいことに、この先は行き止まりだ。袋小路になっている。周囲に武器になるようなものはあるだろうか。瓦礫でも、石ころでも何でもいい。さり気なく周囲を見渡しながら、わたしは懸命にどうするべきか考え続けた。そんなわたし達を凍り付かせるかのように、ヴァニーユは言った。

「運が悪かったようね。私は今、気が立っているの。久しぶりに生きのいい蝶を食べたかったのに、人間にまで邪魔されてしまって。でも、あなた達なら申し分ないわ。ビスキュイ、マドレーヌ。成長途中の少年少女。どちらからいただこうかしら」

 ヴァニーユ。この人がただの花だと思っていた頃のことが今では信じられない。どうしてあの頃は、この殺気に気づかなかったのだろう。どうしてあの頃は、この眼差しの恐ろしさに気づかなかったのだろう。わたしもビスキュイも恐怖に駆られていた。逃げ場はない。逃げるには、彼女に立ち向かうしかない。

「マドレーヌ……」

 ビスキュイの囁きに、わたしは手を握り返して頷いた。

「……二手に分かれよう。わたしは右、ビスキュイは左へ」

「──うん!」

 ひっそりと打ち合わせると、わたし達は手を離した。ビスキュイの温もりがないだけでだいぶ心細い。しかし、怯えている暇はない。掛け声をあげて、わたし達はヴァニーユに向かって突進した。戦うためではない。逃げるために。左右に分かれて突撃し、強引に道を切り開こうとした。

 しかし、相手は捕食者だ。人間に飼い慣らされていようと、蟷螂は蟷螂。その狩猟本能を、決して甘く見てはいけなかった。ヴァニーユは冷静にわたし達を目で追うと、迷うことなくわたしの前へと立ちはだかった。簡単に捉えられるのがどちらなのかよく分かっていたのだろう。

 勿論、わたしだって必死だった。彼女の怖さは十二分に心身へと叩き込まれたのだ。ネズミだって追い詰められれば猫を噛む。どんなにはしたなくとも、見っとも無くとも、全身全霊で抵抗すれば逃げられるはず。そう信じていた。だが、思えばきっと、アンゼリカだって、ババだって、同じように信じて抵抗しただろう。そして、命を落としたのだろう。

「マドレーヌ!」

 ビスキュイの悲鳴染みた声にも、今のわたしには返答することが出来なかった。激しい力で取り押さえられたかと思えば、途端に意識が遠のいてしまった。首を絞められているのだと分かったのは、苦痛が続いてしばらくのことだった。生かさず、殺さず、その間の力で、ヴァニーユはわたしの首を掴み続けていた。

 視界が霞む中、わたしはどうにかビスキュイの姿を捜した。

 ──どうか逃げて。

 そう訴えたかったが、声は出なかった。

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