6.肉食妖精の飼い主

 アンゼリカの悲劇から数日間、わたしはチョーカーをつけたままフィナンシエの屋敷に引きこもっていた。出来るだけ人間たちに悟られないように振舞っていたので、きっとキュイエールを始めとした屋敷の使用人たちはいつまたわたしが逃げ出さないかとヒヤヒヤしていただろう。

 あからさまに注意をしてくることはなかったけれど、日々の世話をしてくれるキュイエールの口ぶりからは、わたしにもう外出しないで欲しいという気持ちがよく伝わってきた。それでも彼女にはもう、わたしが勝手に外出したことを咎められる権利はない。何故なら、フィナンシエがそれをよしとしているわけだから。

 しかし、そもそもキュイエールがどう振る舞おうとも、今のわたしは他ならぬ自分自身が外に出る気をなくしていた。グリヨットたちがあれからどうしているのか、気にならないわけではない。あの日からグリヨットは姿を見せないし、野良妖精を襲った肉食妖精がどうなったかなんて尋ねられる人間がいるわけでもない。この目で確かめたいという気持ちはどうしても湧いてくる。

 それでも、そんなわたしの衝動を制御するのがルリジューズに言われた事だった。

 彼女の忠告を思い出し、チョーカーに触れると、どうしても気持ちは落ち込んでしまう。彼らのもとに近づくこと自体が迷惑行為に思えてならない。いや、思えるというより、その通りなのだろう。だから、わたしは安全な屋敷で、優しい主人のもとで、不気味なほどに穏やかな日々を過ごしていたのだ。

 せめて、待ってみよう。グリヨットが再び報告に来てくれる日を。だが、待ち続けるわたしの元に現れたのは、グリヨットではなかった。変化の風をもたらしたのは今、もっとも会いたくない人間だった。

「ああ、元気そうで何よりだ」

 呼び出された先の応接間に入るなり、わたしはそう言われた。来客用のソファに行儀よく座るその紳士を見て、わたしは寒気を感じてしまった。サヴァラン。あの男がまたやって来た。応対しているフィナンシエは青ざめた顔をしていた。それに対し、サヴァランはやけに上機嫌だった。その鋭い眼差しが、わたしの首元へと向く。

「噂には聞いていたが、本当だったらしい。フィナンシエ君、若き君に一つ言っておこう。首輪を用意したことは結構だが、それだけでは愛する妖精を守ってはくれない。妖精たちに神のご加護はないのだ。彼らを守れるのは万物の霊長たる人間だけ。よいかね、フィナンシエ君。悪い事は言わない。首輪をするのはいいが、飼育室には常に鍵をかけておきなさい。可愛い蝶を惨たらしく死なせたくないならね」

 彼の言葉にさらに鳥肌が立つのを感じた。フィナンシエもまたその表情から不快を隠そうとしていない。わたしが以前、伝えた事を覚えていてくれているのだろうか。わたしもまたそうだった。彼の言葉にわたしは恐怖よりも怒りを覚えていた。アンゼリカが死んだ。彼のせいで不幸になった彼女が。その理不尽さで爆発しそうだった。

 しかし、だからと言って爆発するほどの勇気がないのも確かだった。俯いて、怒りに震えていることしか出来ない。そんな自分が情けなく、無力感に苛まれた。そんなわたしを気遣うように、フィナンシエは静かに手招いた。それに従って隣に座ると、優しき主人はサヴァランに対して口を開いた。

「サヴァランさん」

 いつもの穏やかな声ではなかった。敵意を堪えているが、漏れ出している。そんな声だった。

「噂といえば、私も少し気になる噂を耳にしました。他ならぬあなたに関する噂です」

「ほう、それをわざわざこの私に直接ぶつけるとは。一体どんな噂かな」

 厭味ったらしく訊ねるサヴァランに、フィナンシエは鋭い眼差しを向ける。

「あなたが秘密裏に蜘蛛の妖精を飼育されているという内容です。それ自体は問題ないのですが、その蜘蛛に生餌を与えているのだと」

 その言葉にサヴァランが眉をあげた。フィナンシエは少しだけ目を細め、続けた。

「根も葉もない噂ではあります。噂は勝手に成長するもの。生餌の話もいつの間にか付け足されただけかもしれません。しかし、私は気になったのです。あなたがもし、本当に蜘蛛の妖精を飼っていらっしゃるなら、たった今、お伝えしてくださった巷の野良妖精たちを騒がせている肉食妖精とやらは、あなたの妖精なのではないのかと」

 なるほど、と、サヴァランは軽く手を叩いて返答した。

「面白い考察だ。それに、噂というものは恐ろしいものですな。その通り、私は確かに蝶の他に蜘蛛の妖精を愛でていた。バルケットという名前でね、人間ならば妻にしたいほど美しい妖精だった。しかしね、彼女をうっかり逃がしてしまうなんてことはない。……あり得ないのだよ。彼女は既に死んでしまったからね」

 蜘蛛の妖精バルケット。やっぱり。サヴァランは本当に蜘蛛を飼っていた。アンゼリカの言っていた蜘蛛なのだろう。死んでしまったというのも、やはり彼女の言っていた通りだ。

 蝶の他に蜘蛛を愛でていた?

 よくもぬけぬけとそう言う事を口に出来るものだ。震えていたアンゼリカの姿を思い出し、わたしはますますこのサヴァランという男に嫌悪感を抱いていた。フィナンシエもまた、疑いの目を向け続けている。

「その蜘蛛以外になにか肉食妖精を飼っていらっしゃるのでは?」

 すると、フィナンシエと同じくらい厳しい眼差しをサヴァランは返してきた。キツネ同士が睨み合うように見つめ合ってしばらく、サヴァランは不意にため息をついて目を逸らした。

「いかなる種族であれ、肉食妖精というのはとても繊細な生き物だ。蝶の妖精とは比べ物にならない程にね。蝶だって高価な生き物だが、彼らはさらに高価だ。そんな価値のある生き物を、檻から出して町をうろつかせるなんて私にはとても出来ないよ」

 しかしねえ、と言いながら、サヴァランは不敵に笑った。

「我らが太陽の国において肉食妖精を放し飼いにすること自体は罪にならない。もちろん、善良な市民の通報があればすぐにでも保護されることになっているが、その間に、野良妖精の一匹や二匹をつまみ食いしたところで咎められることはない。いいかね、フィナンシエ君。覚えておいた方がいい。時折、放し飼いにしていた良血蝶々が同じく放し飼いにされていた良血の肉食妖精に食べられてしまう事故があるそうだ。その場合、主人同士の公平な話し合いによって決着がつくだろう。けれど、法廷の秤がどちらに傾くにしろ、一度失われた命は戻ってこないのだ。君がそのマドレーヌ嬢を大切に思っているのであれば、簡単な事。愛する蝶を守れるのは君だけなのだよ」

 ただの忠告にしては厭味ったらしいのは何故だろう。言い返す事も出来ず、わたしもフィナンシエも黙って俯いていた。無意識に触れたチョーカーの感触に、さらに気落ちしてしまう。これが守ってくれるのはあくまでも人間相手のみ。アンゼリカを食べてしまった肉食妖精が何者であるにせよ、チョーカーなど役に立たないことは肝に銘じておかないと。

「そうだ」

 黙っていると、サヴァランが再び口を開いた。

「今日お伝えしなくてはならない話はこれだけではなかった」

 そう言って彼は優雅に茶を飲む。勿体ぶるようにして彼はようやく話しだした。

「ここ数日のことだ。ああ、肉食妖精騒ぎが野良どもを脅かした直後のことかな。野良どもが住み着いている区域の付近の住民から妖精管理局にたびたび苦情が入っているらしい。そこにはどうやら涙ぐましい事情があるようでね。危険な肉食妖精を自分たちでどうにかしようと奮起しているそうなのだよ。かつて我が国の優秀な武器に対して、お手製の粗末な武器で健気に立ち向かってきた美しくも哀れな妖精たちの末裔らしい姿じゃないか。しかしね、可哀想な事だが、近隣住民にとっちゃ迷惑だ。子供が傷つけられやしないか、何かが盗まれるのではないか。心配は尽きないそうだ。何しろ、その野良どもを率いているのがかつて収容所を襲撃した立派な翅を持つ蝶々娘によく似ているそうだからね。それにね、肉食妖精の討伐だって褒められたことじゃない。その肉食妖精が誰かの愛玩妖精だったとしたら、これはとんでもない権利の侵害だ。法による秩序を乱す妖精は、もはや害獣と言ってもいい。妖精管理局も黙ってはいられなくなるだろう」

 笑っているサヴァランの姿に、わたしは新たな緊張感を覚えた。フランボワーズたちのことが人間たちに良く思われていない。この内容の危険性が分からないほど、わたしも世間知らずではなくなっていた。あまりに重たいその世間話に、わたしは心には変化が訪れていた。

 伝えないと。この事を、グリヨットたちの耳に入れておかないと。

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