6.初めての社交場
あらかじめ言われていたことではあったが、アマンディーヌとビスキュイは事あるごとにフィナンシエの屋敷を訪ねてきた。どうやらそれがフィナンシエの屋敷の日常らしく、わたしが来てから一週間は遠慮していただけらしい。しかし、何度来ようと問題はない。初めて会った時からビスキュイとはしっくり来ていたし、アマンディーヌの方も妖精の扱いに慣れているらしく、わたしがいくら緊張しようと優しく見守ってくれた。お陰でアマンディーヌのことも第二の主人のように接することが出来るようになっていった。
そんな頃合いを窺っていたのだろう。ある日、フィナンシエはわたしに新しい世界を教えてくれた。
「愛好会、ですか?」
聞き慣れないその言葉を繰り返すと、フィナンシエもまた何故か緊張気味に頷いた。
「アマンディーヌに誘われてね。蝶の妖精のオーナーになったならば出席しておくといいのだと。ああ、君がどうしても無理だというのならば私だけが行くから安心なさい」
「あの……ビスキュイは……?」
「一緒に出席すると聞いているよ。先月はお休みしたそうだが、ほぼ毎月、アマンディーヌは彼を連れて行っているらしい」
そんな話を聞かされて、どうしてわがままが言えるだろう。
「では、わたしもご一緒します。それで……わたしはそこでどのように振る舞えばいいのでしょうか?」
その大事な問いに、フィナンシエはにこりと微笑んだ。
「いつも通りで構わない。主催者は蝶を愛するヴェルジョワーズという淑女でね。蝶のことは何でも分かっている。会場で気ままに楽しく過ごすことこそが君たち蝶の役目でもあるそうだ。愛好会には他にも蝶や花の妖精のオーナーが集まる。花の妖精たちはお留守番だが、その分、各人ご自慢の蝶が連れて来られる。たくさんの蝶が集まって見せ合うことが愛好会の趣旨でもあるらしい」
「──では、わたしとビスキュイの他にも蝶が?」
「ああ、いつもたくさん集まると聞いているよ。全員が羽化済みだって。君にとってもお友達を作る絶好の機会となるはずさ。楽しみにしていなさい」
そう言ってフィナンシエはにこにこ笑い、鼻歌交じりに手紙にサインをしていた。アマンディーヌとのデートが楽しみなのか、我が主人はだいぶ上機嫌のご様子だ。だが、主人だけではなくわたしだって少しは楽しみだった。ビスキュイの他にも同じ良血蝶々の友人が出来るかもしれないと思えば当然の事。けれど、好奇心以上にわたしは不安も抱いていた。アマンディーヌとビスキュイに初めて会う日でさえあんなに緊張したというのに、今度はその比でない数の人間や妖精と出会うことになるのだ。わたしの何かしらの失態で、フィナンシエに恥をかかせてしまう。そう思うと、不安で仕方なかった。しかし、そんな事を主人に告白できるはずもない。わたしが素直になれるのは、世話係のキュイエールの前だけだった。
「マドレーヌなら大丈夫」
寝る前に髪を梳いてもらいながら、わたしがぽつりと不安を漏らすと、キュイエールは明るい声でそう言った。
「だってあなたは気品ある良血蝶々だもの。気持ちを落ち着かせて、いつも通り振舞えばそれで十分。妖精好きなら誰だって、あなたの魅力に夢中になるんだから」
「そう……かな」
どきどきしながら呟くと、キュイエールは正面の鏡越しににっこりと笑いかけてきた。
「そうに決まっているわ。だから怖がらないの」
「うん」
わたしは真面目に頷いた。けれど、キュイエールの温かい笑みを見ているうちに、ついつい甘えたくなった。
「キュイエールも一緒だったらいいのに」
すると、キュイエールはお姉さんらしく呆れたようにこちらを見つめ、わたしの頭をぽんと撫でてきた。
「そうしたいところだけれどね、あなたがお留守の間に片付けないといけないお仕事が山ほどあるの」
「そっか」
俯くわたしの肩を抱き、キュイエールは言った。
「怖がらずに楽しんでらっしゃい。こういうのはね、あれこれ心配するよりも、もっと気楽な心構えで居た方が上手くいくものよ」
キュイエールに明るく言われると、少しは気持ちが前向きになれた気がした。ここへ来てから生家がちっとも恋しくならないのは、きっとキュイエールがここにいて、生家にはいないからだろう。そのくらい、今のわたしにはキュイエールの存在が大きかった。
「帰ってきたらどんなことがあったかわたしにもお話をしてちょうだい?」
「うん!」
キュイエールに負けず劣らず明るい声で頷くと、彼女もまた安心したように微笑んでくれた。こうして勇気を貰えたお陰だろう。不安な気持ちが完全に消えたわけではないけれど、時計の針が進むごとに、不安よりも楽しみな気持ちが増していった。一緒に出席する予定のビスキュイからも話を聞かされて、次第に緊張も解れていく。「大丈夫だよ。僕も一緒だしさ」と、胸を張るビスキュイの存在が心から頼もしかったお陰もあるだろう。あれよという間に時計の針は進んでいったけれど、その日が目の前まで迫る頃には、逃げ出したいというほどの緊張感もすっかり消えてしまっていた。
──あなたなら大丈夫。
会場となるヴェルジョワーズの屋敷に向かう馬車の中で、わたしは外の景色を眺めながらキュイエールの言葉を思い出していた。そう、わたしなら大丈夫。自分自身にそう言い聞かせ、今日の日までしぶとく残った一抹の不安も握りつぶそうとした。けれど、この一抹の不安はなかなかしぶとかった。それだけわたしが引っ込み思案であるという事なのかもしれないし、或いは、向かいに座ったフィナンシエが明らかに緊張しているせいなのかもしれない。
理由はどうあれ馬車は止まり、ヴェルジョワーズの屋敷についてしまった。降り立ったわたしの目の前には、オークション会場にも匹敵する賑やかな世界が広がっていた。
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